話:土門拳
絵の好きだった僕は上野の展覧会を見に行きたかったが、小学生の僕は自分で行くことも出来ず、といって連れて行ってくれる人もいなかった。親たちは生活に追われて、それどころの話ではなかった。
だから僕は、毎年秋の美術シーズンになると、芝の三田通りの慶應義塾のそばに二、三軒あった絵葉書屋で、絵葉書になった絵を見ては、「芸術の秋」を楽しんだのだった。
大正十年(1921)の秋、第三回帝展が上野で開かれた。
僕は例によって絵葉書屋へ行った。鯉の泳いでいる絵があった。絵葉書の小さい原色版ながらも、その八匹の鯉は、まるで実物の鯉のように生き生きと流動的なボリュームを感じさせた。
それこそは、当時、京都の若い無名の画学生、福田平八郎の名を一躍日本中に轟かせた「鯉」だった。僕はしかし、その一枚五銭の絵葉書を買う小遣いすらも持っていなかった。
福田平八郎「鯉」 |
福田平八郎の「鯉」は日に日に評判になり、当時、帝展で特選になった「鯉」を見たということは、東京の街の話題だった。
「鯉」以後、一点の絵で「鯉」ほどにセンセイションを起こした絵を僕は知らない。
或る日曜日、僕は伯父を上野へ誘い出した。その時代は今の東京都美術館はまだなく、竹台陳列館時代だった。「鯉」もそこに並んでいるわけだった。
僕は帝展を見ようと伯父の手を引っぱってせがんだが、伯父はどうしても承知しなかった。
「帝展なんかへ入るよりも、動物園へ入ろう」
と伯父はどんどん行ってしまった。僕はベソをかきながら伯父の後を追った。伯父にとっては帝展の「鯉」よりも、動物園の猿の方が面白かったのかも知れない。いや、本当は、帝展よりも動物園の方が入場料が安かったからかも知れない。
さてそれから三十年、今年の春、上野博物館表慶館の一室で、ゆくりなくも僕は「鯉」にめぐり会った。
初めて見る実作「鯉」は、少年の日の僕の夢を裏切らない名作だった。それは何よりもきびしいリアリズムの作品だった。
その直後、京都伏見へ福田平八郎先生を訪ねた。「鯉」の作者は、会って見ると、驚くべき「絵の虫」だった。
引用:土門拳全集〈9〉風貌「福田平八郎」
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