2017年3月22日水曜日

過去にさかのぼれる粒子 [一ノ瀬正樹]



話:一ノ瀬正樹





ヒュームは「原因と結果」と理解される事象の特徴、すなわち恒常的連接が生じる前提として、「原因と結果は時空的に接近している」、そして「原因は結果に時間的に先行する」という2点を挙げています。

これは、それ自体を考えたときにはもっともなことだと思います。先ほど言ったのは、原因と結果は時間的・空間的に接近しているということです。時間的にもすぐだし、空間的にも文字通り同一の場所です。「原因は結果に時間的に先行する」、これも当たり前で、原因が先に起こらなければいけません。結果は後から起こります。ヒュームはこの2点を挙げているのですが、一見こういう自明な論点でも問題が生じないわけではありません。






たとえば、接近に関していうと、量子力学のEPR相関というものがあります。素粒子が崩壊して2つに分かれた後、一方に波束の収縮が起こると、宇宙の果てまで離れた他方にも、一瞬でその波束の収縮の因果的作用が光速を超えた形で伝わります。これが量子力学のEPR相関です。

アルベルト・アインシュタインやネイサン・ローゼンたちは、「量子力学の考え方を前提にすると、EPR相関という矛盾が起こる」と言いました。アインシュタインは生涯にわたって量子力学に対して批判的で、いろいろな学会で「量子力学の考え方はおかしい」と言いました。「神はサイコロを振らない」というのがアインシュタインの信条でしたが、量子力学にしたがうと、世界の現象は本質的に確率的であるということになってしまいます。それはおかしいとアインシュタインは考えていました。つまり、「宇宙の果てから果てまで、光速を超えた形で因果関係が伝わってしまうのはおかしいではないか」と考えたのです。

しかし、量子力学では反対に「そういうこともあるんだ」と、むしろ認めてしまったわけです。つまり、非局所性という遠隔作用があることを認めたのです。これは、接近していなくても、原因と結果の関係が成立するということの一例です。






さらには時間的先行です。原因と結果で、原因の方が時間的に先行しているということに関しても、「逆向きの因果の可能性」がしばしば言われます。

たとえば、イギリスのオックスフォード大学の哲学者で、マイケル・ダメットというヒトが挙げた「酋長の踊り」という例があります。これは "Bringing about the past" 、「過去を引き起こす」という題の論文の中にあるものです。

ある部族で、成人になるためのプロセスとして、2日かけてライオンのいる草原に出かけ、2日間ライオン狩りを勇敢に遂行して、また2日かけて帰ってくるという通過儀礼をおこなうとします。若者はその通過儀礼を経たうえで、部族の中で成人したと認められます。狩りのあいだ酋長は、若者たちを勇敢に振る舞わせようとして、踊りつづけます。そして最後の2日間も踊りつづけ、若者の行動に影響をあたえようとします。



これを聞いた文明社会の人たちは、こう考えます。若者たちを勇敢に振る舞わせようとして酋長が踊りつづけることが、はたして若者たちに何か影響をおよぼすのか。酋長の踊りが事実的な影響をおよぼすということが、部族の人たちによって何らかの形で信じられています。これは合理的とはいえませんが、1日目から4日目の途中ぐらいまでは、いちおう私たちにも理解可能です。

ところが問題は、最後の2日間、5日目と6日目です。5日目と6日目は、もうライオン狩りが終わって帰ってくるときです。そのときに、若者を勇敢に振る舞わせようと酋長が躍っても、なんの効果もないのではないかと私たちは思います。しかし部族の人たちは、5日目と6日目にも効果があると思っています。「それはおかしいですよ」ということを、その部族の人たちに説き伏せることができるだろうか。これがダメットの問題でした。

結論としては、それを説得することは非常に難しいというものです。そういう意味で、時間を逆向きに、つまり原因と結果の関係において、結果のほうが先に起こっており、原因は後から起こるという考え方を、完全に不合理だとして退けることはできない可能性をダメットは示唆しました。






じつは、物理学の中ではこういうことがあるのです。

たとえば、「ファインマン=シュテュッケルベルグ解釈」といって、過去にさかのぼって進む「antiparticle」と呼ばれる反粒子の存在です。これはCPT対称性などという概念といっしょに提起されるものですが、時間をさかのぼって過去へ動く粒子です。ということは、原因と結果でいえば、原因が後から来ていることになります。

さらには、これはややSF的な想定、仮説にすぎませんが、「タキオン」という物質があります。これは過去に情報を送ることを可能にするような、光速を超えた形ですすむ物質です。そういう想定、仮説です。光速未満では走れないという想定の物質ですが、仮にこの物質の存在を前提にすると、過去に情報を送れるようになることが知られています。これも因果律をやぶっていて、現在から過去にむかって何か作用をおよぼすという物理学的な概念です。そういう意味で、逆向き因果、つまり結果のほうが先にきて、原因が後にくることは、可能性としてあり得ることになります。











2017年3月9日木曜日

「中国語の部屋」という有名な話



話:松尾豊







まず「中国語の部屋」という有名な話から始めてみましょう。

ある人工知能のプログラムがあったとします。プログラムには箱があって、その中に「小さな人間」が入っていると考えてください。その人に中国語で話しかけると、中国語で答えてくれます。それで「中国語の部屋」。

部屋の中の人がやっていることは、中国語の文字が入ってきたら、難しい漢字で意味がまったく分からないとしても、「この文字が出てきたらこう返せ」と書かれた分厚い辞書をめくりながら言葉をつくり、できたら箱の外に投げ返すという作業です。

中国語で問いかけると中国語で返してくれますが、中の小さな人は中国語が分かっていると言えるかどうか?



”ああ。理解しているとは言えませんよね”



「人工知能には人間と同じような思考があるか?」という質問は、これと同じなのです。中の小さな人がいくら賢い返答をしたとしても、コンピューターは中国語がまったくわかっていない。これが「中国語の部屋」の話を考えたジョン・サールという哲学者が言いたかったことです。

もう一つ、「チューリングテスト」という、知能があるかないかを試すテストがあります。今度は部屋が2つあるとしましょう。1つの部屋に人間がいて、もう一方には人間、もしくは人工知能が入っている。ここでチャットをします。チャットをする人間が、何時間たっても、もう一方の部屋にいるのが人間かコンピューターかを判断できなかったときに、チューリングテストに合格、初めて人工知能ができたと見なすわけです。

※チューリングテスト…1950年、イギリスの数学者、アラン・チューリングが考案。



”なるほど。人間を騙せるか否かでテストをするということですね。ネット上で顔が見えていなかったら騙せるかもしれません”



ネットでは

"On the Internet, nobody knows you're a dog".
「あなたが犬かどうか誰も知らない」

という有名な言葉もあります。今から30年前には、「ELIZA(イライザ)」という短い対話プログラムを人間だと思った人もいました。

※イライザ(ELIZA)…1960年代にMITのジョセフ・ワイゼンバウムによってつくられた、原始的な自動チャットプログラム。ユーザーが発した言葉をつかった返答をプログラムすることによって、人間らしさを演出した。



これと「中国語の部屋」は対立構造にあります。外から見て賢いふるまいをすれば、それは人工知能だとする立場と、そうは言っても中の小さな人は分かっていないのだから、知能とは言えないよね、という逆の立場です。行動主義か認知主義かのような話ですが、そんな議論もあります。

iPhoneに入っている音声認識プログラムの「Siri(シリ)」を使っている人は、何となく自分の言ったことに答えてくれているような気がすると思います。Siriに英語で「今夜、空いている?」と聞くと、「あなたのためなら、いつでも」と返されるわけですし。この返答は認識であり、Siriはきっと考えているのだろうと人間は想像するわけです。

感覚的にはそうですが、しかし実際は、中にいる小さな人が何かの文字を見ては辞書を引き、お返しする文字をつくっているだけです。



”つまり、じつは考えてはいないということですか?”



それはSiriの答えを「考えている」と言うのかどうかです。「考える」の定義の問題でもありますね。

知的かどうかは往々にして見るほうが思うことで、動物の動きにしても、ハチが巣の周りを探索する様子は非常に賢いように見えます。ただ、ハチは遺伝子に組み込まれている行動をとっているにすぎず、見る側の人間が賢いと思っているだけですよね。

九九にしてもそうです。「三三が九」と自然に数字が出てきますが、計算しているわけではない。一連の言葉として覚えていて、計算を代行しています。それが賢いように見えるわけです。



コンピューターの場合も、事例をたくさん覚えさせて、どの事例に近いかを予測する。

たとえば、就活生の受け答えの仕方をデータとして持っていて、その就活生が結果的に使える人材だったかどうかを示す事例がたくさんあれば、過去のデータベースでどれに近いからきっと使える、いやそうではない、と判断できるでしょう。

ある部分はトレーニングを積むことで、賢く見せることができますから。こういうときはこう動くというルールをたくさん学習して、だんだん賢くなっていくという要素も、人工知能にとっては重要なところです。







引用:松尾豊・塩野誠「人工知能って、そんなことまでできるんですか?」






2017年2月18日土曜日

「ここに銀三百両はない」[中国語]


此地无银三百两
Cǐdì wú yín sānbǎi liǎng
「ここに銀三百両はない」





昔々、あるところに帳三という庶民の男がいた。一生懸命はたらき、三百両の銀を貯めた。帳三は大切な銀が盗まれないよう、地面に埋めて隠した。それでも安心できなかった帳三は

「ここに銀三百両はない」

という立札をたてた。隣に住む王二という男が、その様子を見て怪しみ、夜中にこっそり地面を掘り、銀を見つけた。銀を盗んだ王二は、自分が犯人だとばれないよう、自宅の壁に、

「となりの王二は盗んでいません(隔壁王二不曾偸)」

と張り紙をした。



出典:レベルアップ中国語





2017年2月15日水曜日

バッハと庖丁、達磨





話:齋藤孝



バッハは、どうしたらそんなにうまくオルガンが弾けるのかと訊かれて、

「楽譜どおりに定められたタイミングで、定められたところに指を置くだけ」

と言ったという逸話が残っています。いま置くべき位置に置くべき指を置く。つぎのタイミングでも置くべき位置に指を置く。ひたすらこれを積み重ねていくことがすばらしい演奏につながる。一つ一つの鍵盤タッチだけを考え、後のことも先のことも考えない。



『荘子』に庖丁(ほうてい)という料理の名人の話が載っています。彼の刀は19年使っても刃こぼれがしなかったといいます。肉の筋にそってすすーっと求められるがままに切るので、まったく力が入らず、刃こぼれがしなかったからだそうです。

頭で考えずに、瞬間瞬間に求められるがままに手を動かしているゆえのことです。



達磨(だるま)は、

「外に所縁(さまざまな因縁)を止(とど)め、内に心が喘(あえ)がぬこと、心は牆壁(しょうへき、囲い)のようになって、はじめて道に入ることができる」

と説いています。達磨から数えて六代目の祖(六祖)慧能(えのう)も、外に向かって心の思いが起こらないのを「坐」と言い、自分の内側に本性を見て動じないのを「禅」と言うと定義しています。

不動の壁を見つづけることで、外に向かっていた心が内に向かい、何事にも動じない不動の心になり、雑念や妄念に惑わされない境地に落ち着いていく。自分があたかも壁のようになり、自分が壁を見ているのか、壁が自分を見ているのかわからなくなる。

達磨の「壁観(へきかん)」を柳田聖山氏は、

「壁が観(み)るのである、壁を観るのではない。壁となって観るのである。何を観るのか、空を観るのである」

と説いています。








出典:声に出して読みたい禅の言葉




2017年2月8日水曜日

王さまと人喰い鬼






話:アルボムッレ・スマナサーラ



むかしむかし、あるブッダが現れて、涅槃に入って、やがてそのブッダの教えも消えてしまった。そのとき、菩薩は王として生まれ変わっていました。菩薩である王様は、ブッダの教えを聞きたくなって誰か知る者はいないかと探したのですが、誰もいませんでした。そこで、

「ブッダの説かれた真理を聞くことができないならば、自分が人間の王として国を治めても意味がない。真理以外、私にはもう何も要りません」

と言って、王位を捨て、森に入ったのです。



それを知った帝釈天が、

「この人は必死になって法・真理を探している。教えてあげないと、この人は途中で死んでしまうだろう」

と哀れんだのです。その時代の人々の中で、ただ一人この人だけが、ブッダの教えに興味を持っていたのです。



そこで帝釈天は、とても恐ろしい鬼の形に変身して現れた。菩薩の王が、

「あなたは誰ですか?」

と聞いたら、

「私は人喰い鬼だ」

と答えた。でも生きる意味をなくした王は怖がりませんでした。その代わりに、国中の人々に聞いてきた質問をこの鬼にもしたのです。

「あなたは、ブッダの教えを知っていますか?」

と。すると鬼が、

「知っていますよ」

と答えた。王はブッダの教えを知っている人に初めて出会ったのです。



「では、教えてください」

「教えません」

「なぜですか?」

「私は腹が減っているんだ」

「ならば、何でも食べ物を用意しますから教えてください」

「駄目です。私は人喰い鬼だから人しか食べません」

「いくら私が王でも人を差し出すわけにはいきません。ですから私自身を差し上げます。どうぞブッダの法を教えてください」

それでも、

「まず食べてから教えるんだ。腹が減って死にそうだから」

と鬼はゆずらない。

「そんなこと言われても、あんたが私を食べたらどうやって教えるんですか。私はそのときもう死んでいるんだから。ですから先に教えてください」

「駄目だ。こっちは腹が減って死にそうなんだ。先に食べなくては」

「それでは、何か良い案を考えましょう」



そこで王は一つの案を出しました。王(菩薩)は崖の上に登って、そこから鬼に言いました。

「あなたは崖の下で口を開けて待ってなさい。私が崖の上からあなたの口に飛び降りるから、落ちる間にブッダの教えを聞かせてください」

と。それで鬼が先でも王が先でもなく、やりとりは同時に起こるのです。菩薩が崖の上から飛び降りる間に、鬼はブッダの法を教えました。もちろんこの鬼は帝釈天で、人を食べるものではありません。始めから菩薩を助けるために来たのです。知らないのは菩薩だけ。菩薩が飛び降りたところで、帝釈天はちゃんと手で受け止めてあげました。



でもその間に、偈を一つ唱えたのです。その偈は、テーラワーダ仏教徒なら誰でも知っているお釈迦様の言葉です。

諸行は無常である。

生まれては消えていくものだから。

生まれたら、みな消えていく。

そこから解脱したら平安である。

Aniccā vata saṅkhārā uppāda vaya dhammino, Uppajjitvā nirujjhanti tesaṃ vūpasamo sukho.



それだけです。短いけれど真理はきっちり入っているのです。この偈を、人喰い鬼に化けた帝釈天が唱えたのです。この偈は帝釈天のお気に入りの偈なのです。お釈迦様が亡くなったときにも帝釈天はこの偈を唱えて弔辞としたのです。『大般涅槃経』にそう記録されています。

このジャータカ物語では、実際命がなくなることはないのです。教訓は、「真理を知らずに無知で百年生きるよりも、瞬間であっても真理を知って生きることに価値があるのだ」ということです。








出典:アビダンマ講義シリーズ〈第3巻〉心所(心の中身)の分析―ブッダの実践心理学