2015年7月10日金曜日

「睡中かゆきをなづ」 [伊藤一刀斎]


〜話:大森曹玄〜




 足利末期の剣者として特筆すべきものに伊藤一刀斎がある。かれは通称を弥五郎と呼び、伊豆の人とも関西の生まれともいわれ、生国も死処も明らかでないが、身の丈は群を抜き、眼光は炯々として、いつもふさふさとした惣髪をなでつけ、ちょっと見ると山伏かなにかのような風態で、実に堂々とした偉丈夫だったという。



 彼がまだ鬼夜叉と呼ばれた青年のころ、ある日、師の鐘巻自斎に向かってこう言ったものである。

「先生、わたくしは剣の妙機を自得しました」

これを聞いた自斎は大いに怒って「未熟者が何をいうか」とののしったが、かれは平然として、

「しかし先生、妙とは心の妙である以上、自分みずから悟る外はないではありませんか。決して、師から伝えられるものではないと思います」

と抗弁して一歩もゆずらなかった。こんな押し問答がなんべんか繰り返されたのち、それではというので師弟の間で技をたたかわせることになった。ところが師の自斎は三度たたかって三度とも敗れてしまったので、大いに驚いてそのわけを聞くと、かれは曰く、

「人は眠っている間でも、足のかゆいのに頭をかく馬鹿はありません。人間には自然にそういうはたらきをする機能が具わっているのです。その機能を完全にはたらかせることが剣の妙機というものだと思います。先生が私を打とうとされるとき、先生の心は虚になっています。それに反し、わたくしはいま申したような自然の機能(はたらき)で危害をふせぎますから実です。実をもって虚に対すれば勝つのは当然でしょう」

 そう説明されてみれば、いかにも当然の理屈なので、自斎もうなずくほかはなかった。

 この「睡中かゆきをなづ」という言葉は、千葉周作の『剣法秘訣』の中にもあったと記憶するが、鏡が物体を写すような無心のはたらきを表わす言葉として、古来の剣客が好んで用いたものかもしれない。







 その後、一刀斎は剣の妙旨を授けてもらうべく、鎌倉の鶴岡八幡宮に祈ったことがある。三七二十一日の間、至誠をかたむけて参籠精進したが、ついに期待したような奇蹟は現われなかった。満願の日になっても、依然として神示はなかった。失望したかれは、自分の誠心の足らぬためかと、悄然として拝殿を降りて帰りかけた。

 そのとき、物蔭に黒い影がチラリと動く気配が感じられた。途端に、あたかも睡中にかゆいところをなでるように、無意識の間に手が動き、刀が鞘走ってその影を斬りすてていた。いや影を見た−−というよりは感じたのと、斬ったのとがほとんど同時といってよいほどに間髪を容れない心・手一如の速さだった。

 かれは振り向きもせずその場を立ち去ったが、後年その出来事を回顧して「あれこそ自分が八幡宮に祈って得られなかった夢想の場である」と気づき、その時の体験を組織して夢想剣と名づけたと伝えられている。



 この話の真実性は疑わしいともいわれているが、その内容には否定しがたい剣禅の妙機がふくまれている。このときの一刀斎のはたらきは、その直感、思惟、行為の三つが何のズレもなく、一刹那のあいだに即一的に行われたのである。もちろんこれには剣技が反射作用的に無意識的に発揮できるまでに、千錬万鍛されていなければならないことはいうまでもないが、同時に一刀流の言葉でいえば、無念にして対者の想を写しとるところの「水月移写」という、心境の錬磨が十分にできていなければなし得ないはずである。

 「水月移写」ということについて『一刀斎先生剣法書』には

「月、無心にして水に移り、水、無念にして月を写す、内に邪を生ぜざれば、事よく外に正し」

と説明している。







引用:大森曹玄『剣と禅 (禅ライブラリー)




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