2016年1月3日日曜日

佐藤一斎『重職心得箇条』 (原文・現代語訳・評)








【安岡正篤】



佐藤一斎先生が自分の出身の岩村藩のために選定しました藩の十七条の憲法、これが「重職心得箇条」です。これは段々有名になりまして、伝え聞く諸藩が続々と使いを派遣してこの憲法を写させて貰ったということです。

それがどうしましたか、明治以来すっかり世に忘れられてしまいまして、自然、「重職心得箇条」というものの原稿の所在も不明になっていました。確か大正になりまして、ふとしたことから東京帝大の図書館の蔵書の中から発見され、改めて識者の間に注意を引くようになったという歴史があります。

これを読んでみますと、実に淡々として少しもこだわらずに極めて平明に重職の心得べき憲法を叙述しています。聖徳太子の十七条憲法なども非常に優れたものですが、この心得箇条も非常にくだけた文章で、しかも高い見識のもとに、国政にあずかる重要な職務にあたるものはかくしなければならんということを、実に要領よく把握している名作だと思います。






一.

重職と申すは、家国の大事を取り計らうべき職にして、此の重の字を取り失ひ、軽々しきはあしく候。

重役というのは国家の大事を取り計らうべき役職のことであって、その重の一字を失い、軽々しく落ちつきがないのは悪い。

大事に油断ありては、其の職を得ずと申すべく候。

大事に際し油断があるようでは、この職は務まらない。

先づ挙動言語より厚重にいたし、威厳を養ふべし。

まず挙動言語から重厚にし、威厳を養わねばならない。

重職は君に代わるべき大臣なれば、大臣重うして百事挙がるべく、物を鎮定する所ありて、人心をしづむべし、斯くの如くにして重職の名に叶ふべし。

重役は主君に代わって仕事をする大臣であるから、大臣が重厚であってはじめて、万事うまくいくし、物事をどっしり定めるところがあって、人心を落ちつかせることができるものである。それでこそ重役という名に叶うのである。

又小事に区々たれば、大事に手抜きあるもの、瑣末を省く時は、自然と大事抜け目あるべからず。

また小事にこせついていては大事に手抜かりがでてくる。小さなとるに足らない物を省けば、自然と大事に抜け目がなくなるものである。

斯くの如くして大臣の名に叶ふべし。

このようにして初めて大臣という名に叶うのである。

凡そ政事は名を正すより始まる。今先づ重職大臣の名を正すを本始となすのみ。

およそ政事(まつりごと)というのは名を正すことから始まる。今まず重役大臣の名を正すことが政事の一番の本であり始めである。



【安岡正篤】

これは、明治、大正、昭和と、国政の 衝にあたった人達を順々に考えて参りましてもわかります。やはり西郷とか大久保とか、ああいう人々がおった時は、何ということなく、人心がどっしり落ちついている。それから後世になると段々軽くなる。軽くなるというと争いが始まり、浮調子になる。

重職というものは、何となくどっしりとして重みがあり、その人がおると人々が落ちつくというふうでなければならない。



二.

大臣の心得は、先づ諸有司の了簡(りょうけん)を尽くさしめて、是れを公平に裁決する所其の職なるべし。

大臣の心得として、まず部下、諸役人の意見を十分発表させて、これを公平に裁決するのがその職分であろう。

もし有司の了簡より一層能(よ)き了簡有りとも、さして害なき事は、有司の議を用いるにしかず。

もし、自分に部下の考えより良いものがあっても、さして害のない場合には、部下の考えを用いる方が良い。

有司を引き立て、気乗り能(よ)き様に駆使する事、要務にて候。

部下を引き立てて、気持ち良く積極的に仕事に取り組めるようにして働かせるのが重要な職務である。

又些少の過失に目つきて、人を容れ用いる事ならねば、取るべき人は一人も無き之れ様になるべし。

また小さな過失にこだわり、人を容認して用いることがないならば、使える人は誰一人としていないようになる。

功を以て過を補はしむる事可也。

功をもって過ちを補わせることがよい。

又堅才と云ふ程のものは無くても、其の藩だけの相応のものは有るべし。

また、とりたててえらいというほどの者がいないとしても、その藩ごとに、それ相応の者はいるものである。

人々に択(よ)り嫌いなく、愛憎の私心を去って用ゆべし。

択(え)り好みをせずに、愛憎などの私心を捨てて、用いるべきである。

自分流儀のものを取り計るは、水へ水をさす類にて、塩梅を調和するに非ず。

自分流儀の者ばかりを取り立てているのは、水に水をさすというようなもので、調理にならず、味もそっけもない。

平生嫌ひな人を能(よ)く用いると云ふ事こそ手際なり。

平生(へいぜい)嫌いな人間を良く用いる事こそが腕前である。

此の工夫あるべし。

この工夫がありたいものである。



【安岡正篤】

「自分流儀のものを取計るは、水へ水をさす類にて、塩梅(あんばい)を調和するに非ず。平生、嫌ひな人を能く用いると云うこそ手際なり」

これは一斎先生の「重職心得箇条」の中での一つの名言といわれるものであります。どうも人間というものは好き嫌いがあって、いやだ嫌いだとなると、とかくその人を捨てるものであります。

たとえ自分の気に入らなくてても、「できる」「これはよくやる」とか「これは正しい」「善い」ということになれば、たとえ嫌いな人間でもそれをよく用いる。才能を活用する。これが重職たるものの手際である。この工夫がなければならないということで、もっともな意見です。



三.

家々に祖先の法あり、取り失ふべからず。

家々には祖先から引き継いで来た伝統的な基本精神(祖法)があるが、これは決して失ってはならない。

又仕来(しきた)り仕癖(しくせ)の習いあり、是れは時に従って変易あるべし。

また、しきたり(仕来)、しくせ(仕癖)という習慣があるが、これは時に従って変えるべきである。

兎角目の付け方間違ふて、家法を古式と心得て除(の)け置き、仕来り仕癖を家法家格などと心得て守株(しゅしゅ)せり。

とかく目の付け所を間違って、祖法伝来の家法を古くさいと考えて除(の)けものにし、しきたり・しくせを家の法則と思って一生懸命守っている場合が多い。

時世に連れて動かすべきを動かさざれば、大勢立たぬものなり。

時世に連れて動かすべきものを動かさなければ、大勢はたたない(時勢におくれてしまって役に立たない)。



【安岡正篤】

「守株(しゅしゅ)」というのは、皆さんもご承知の名高い故事のある熟語です。

ある愚かな百姓が、どこからか追われてきたウサギが勢いこんで飛び込んできたとたん、切り株にぶつかって死んだ。ウサギを一匹うまく拾った。それから、この阿呆はいつもそこで、またウサギが出てきて鼻づらをぶつけて死ぬのを待っておったという故事。

これから愚かな習慣にとらわれることを守株(しゅしゅ)、株を守ると申します。



四.

先格古例に二つあり、家法の例格あり、仕癖の例格あり、先づ今此の事を処するに、斯様斯様あるべしと自案を付け、時宜を考へて然る後例格を検し、今日に引き合わすべし。

昔からの習わしとか先例というものには二種類ある。一つは家法からくる憲法的なきまりであり、もう一つは因襲のきまりである。今、ある問題を処理する場合、こうあるべきだという自分の案をまず作成し、時と場合を考えた上で習わしとか先例とかを調べて、これで良いかを判断しなければならない。

仕癖の例格にても、其の通りにて能(よ)き事は其の通りにし、時宜に叶はざる事は拘泥すべからず。

単なる慣習からくる習わしや先例であっても、その通りで良い事はその通りにすれば良いが、時宜に合わない事には拘泥していてはならない。

自案と云ふもの無しに、先づ例格より入るは、当今役人の通病(つうへい)なるべし。

自案というものを持たずに、まず古い習わしとか先例とかから入っていくのは、当今の役人の共通の病気である。



【安岡正篤】

「時宜に叶はざる事は拘泥すべからず」

もはや時の宜(よろ)しきを得ない、時が変わってしまって適応できないことには拘泥してはならん。



五.

応機と云ふ事あり肝要也。

機に応ずということがあるが、これは重要なことである。

物事何によらず後の機は前に見ゆるもの也。

何事によらず、後からやって来る機というものは事前に察知できるものである。

其の機の動き方を察して、是れに従ふべし。

その機の動きを察知してそれに従うのがよい。

物に拘(こだわ)りたる時は、後に及んでとんと行き支(つか)へて難渋あるものなり。

物に拘っていて(この機をのがした時に)は後でとんといきつかえてどうにもならぬ。



【安岡正篤】

「物事何によらず後の機は前に見ゆるもの也」

我々は注意しておると、後でどういうことが起こるかということが先に見える。だから医者が人体を診察すれば、これはこういう病気が起こるとか、こうなるとかがわかる。そこで、「その機の動き方を察して、これに従うべし」となります。



六.

公平を失ふては、善き事も行はれず。

公平を失っては善い事すらも行われない。

凡そ物事の内に入ては、大体の中すみ見へず。

だいたい物事の内に没頭してしまうと、どこが中か隅かもわからなくなってくる。

(しばら)く引き除(の)きて、活眼にて惣体の体面を視て中を取るべし。

しばらく問題を脇に除けて、活眼でもって全体を見わたし、中をとるのがよい。



七.

衆人の圧服する所を心掛くべし。無利押し付けの事あるべからず。

衆人が服従するのを厭がるところをよく察して、無理押付はしてはならない。

苛察を威厳と認め、又好む所に私するは皆小量の病なり。

きびしく人の落度などを追及することを威厳と考えたり、また自分の好むがままに私したりするのは、皆人物の器量の小さいところから生ずる病である。



【安岡正篤】

「少量の病なり」

知識というものはごく初歩というか、一番手近なもので、知識がいくらあっても「見識」というものにはなりません。見識というのは判断力です。見識が立たないと、どうも物事はきまらない。

見識の次に実行という段になると、肝っ玉というものが必要になる。これは実行力です。これを「胆識」と申します。知識、見識、胆識、これが「識」というものの3つの大事なことです。



八.

重職たるもの、勤め向き繁多と云ふ口上は恥ずべき事なり。

重役たる者、仕事が多い、忙しいという言葉を口に出すことを恥ずべきである。

仮令(たとえ)世話敷(せわし)くとも世話敷きと云はぬが能(よ)きなり。

たとえ忙しくとも、忙しいといわない方が良い。

随分の手のすき、心に有余あるに非ざれば、大事に心付かぬもの也。

随分、手をすかせたりして、心の余裕がなければ、大事な事に気付かず、手抜かりが出るものである。

重職小事を自らし、諸役に任使する事能(あた)はざる故に、諸役自然ともたれる所ありて、重職多事になる勢いあり。

重役が小さな事まで自分でやり、部下に任せるという事ができないから、部下が自然ともたれかかって来て、重役のくせに仕事が多くなるのである。



【新井正明評】

常日頃、「忙しい、忙しい」と口癖のように言っておった重役が、先生(安岡正篤)の講義を聴いた後で、「勤向繁多という口上は恥ずべき事なり。たとえ世話しくとも世話しきと言わぬがよきなり、云々」には参った、と感想を述べていたのが印象的でした。



九.

刑賞与奪の権は、人主のものにして、大臣是れ預かるべきなり。

刑賞与奪の権は主君のもので、大臣がこれを預るべきである。

(さかし)まに有司に授くべからず。

逆様に部下に持たせてはならない。

斯くの如き大事に至っては、厳敷(きびし)く透間あるべからず。

このような大問題については厳格にして、ぬかりのないようにしなければならない。



十.

政事は大小軽重の弁を失ふべからず。

政事においては大小軽重の区別を誤ってはならない。

緩急先後の序を誤るべからず。

緩急先後の順序も誤ってはならない。

徐緩(じょかん)にても失し、火急にても過つ也。

ゆっくりのんびりでも時機を失することになり、あまり急いでも過ちを招くことになる。

着眼を高くし、惣体を見廻し、両三年四五年乃至十年の内何々と、意中に成算を立て、手順を遂(お)いて施行すべし。

着眼を高くし、全体を見廻し、両三年、四、五年ないし十年の内にはどうしてこうしてと心の中で成算を立て、一歩一歩と手順を踏んで実行しなさい。



十一.

胸中を豁大(かつだい)寛広にすべし。

心を大きく持って寛大でなければならない。

僅少の事を大造(=大層)に心得て、狹迫なる振る舞いあるべからず

ほんのつまらぬ事を大層らしく考えて、こせこせとした振舞をしてはならない。

仮令(たとえ)才ありてお其の用を果たさず。


たとえ素晴らしい能力を持っていても、それではその能力を発揮させることができない。

人を容るる気象と物を蓄うる器量こそ、誠に大臣の体と云ふべし。

人を包容する寛大な心と何でも受けとめることのできる度量の大きさこそが、まさに大臣の大臣たるところというものである。



十二.

大臣たるもの胸中に定見ありて、見込みたる事を貫き通すべき元より也。

大臣たるもの胸中に一つの定まった意見を持ち、一度こうだと決心した事を貫き通すべきであるのは当然である。

然れども又虚懐公平にして人言を採り、沛然と一時に転化すべき事もあり。

しかしながら心に先入主、偏見をもたないで公平に人の意見を受け入れ、さっとすばやく一転変化しなければならない事もある。

此の虚懐転化なきは我意の弊を免れがたし。

この心を虚しうして意見を聞き一転変化することができない人は、我意が強いので弊害を免れることが出来ない。

能々(よくよく)視察あるべし。

よくよく反省せられよ。



【安岡正篤】

「沛然と一時に転化すべき事もあり」

「沛然(はいぜん)と」、つまり夕立ち・大雨が降ってくるように、大変な勢いで、からりと転化しなければならないこともある。

仕来り(しきたり)、仕癖(しくせ)というものは、あるにはあって、これも軽んずるわけにはいかないが、ある時期、ある必要な時には、今まで晴れておったのに、おやっというふうに雲が出てきてドーッと雨が降るように、一時に転化することが必要な時もある、ということです。



十三.

政事に抑揚の勢いを取る事あり。

政事においては抑揚の勢といって、或いは抑えたり、或いは揚げたり調子をとらねばならぬことがある。

有司上下に釣り合いを持つ事あり。

また部下上下の間に釣合いを持たねばならぬこともある。

能々(よくよく)(わきま)ふべし。

よくよくこれをわきまえねばならない。

此の所手に入て信を以て貫き義を以て裁する時は、成し難き事はなかるべし。

このところを充分心得たうえで、信を以って貫き、義を以って裁いていけば、成し難い事はないものである。



十四.

政事と云へば、拵へ事繕ひ事をする様にのみなるなり。

政事というと、こしらえ事、つくろい事をするようにばかりなるものである。

何事も自然の顕れたる儘(まま)にて参るを実政と云ふべし。

何事も自然に現われたままでいくのを実政というのである。

役人の仕組む事皆虚政也。

役人の仕組むような事は皆、虚政である。

老臣など此の風を始むべからず。

殊に老臣などは役人の模範であるから、こういう悪風を始めてはならない。

大抵常事は成るべき丈は簡易にすべし。手数を省く事肝要なり。

通常起こる大抵の仕事は、できるだけ簡易にすべきである。手数を省くことが肝要である。



【安岡正篤】

「手数を省くこと肝要なり」

論語のはじめに皆さんもよくご承知の「吾、日に三たび吾身を省みる」という語があります。この「省」という字を「かえりみる」と読んだのでは50点です。

「省」という字には、少なくとも2つの大事な意味がある。一つは「省(かえり)みる」ということ、もう一つは「省(はぶ)く」ということです。反省し、省(かえり)みることによって、不要なこと、無駄なことを省(はぶ)いていく、これが「省」という字の逸してはならない2つの大事な意味です。

だから論語のはじめのこの文章を、「吾、日に三たび吾身を省(かえり)みる」と読んだのでは50点だというのです。やはりここは「省(しょう)す」、あるいは「省(せい)す」と読まなければなりません。

古人はなかなか隅に置けないところがあり、役人という者はとかく無駄が多い、馴れて省みなくなる。ごたごたと仕事を複雑にする。そこで省(かえり)みて省(はぶ)かなければならない。というので、役所の名前に「省」の字をつけた。昔の人はよく考えたものです。今の役人もこういうことを覚えておき、省いていくことが肝要です。



十五.

風儀は上より起こるもの也。

風儀というものは上の方から起ってくるものである。

人を猜疑し蔭事を発(あば)き、たとへば誰に表向き斯様に申せ共、内心は斯様なりなどと、掘り出す習いは甚だあしし。

人を疑ってかかり、隠されている事まで発(あば)き、例えば「誰某に表向きこのように言ったけれど、実はこうなのだよ」などとほじくり出す習いは非常に悪い事である。

(かみ)に此の風あらば、下(しも)必ず其の習いとなりて、人心に癖を持つ。

上にこのような風儀があれば、下は必ず見習い、人心に悪い癖がつく。

上下とも表裏両般の心ありて治めにくし。


上下ともに心に表裏ができ、治め難くなってくる。

何分此の六(むつ)かしみを去り、其の事の顕(あらわ)れたるままに公平の計(はから)ひにし、其の風へ挽回したきもの也。

したがって、このようなむつかしみを去り、その事の現れたまま正直に公平にやれるよう、その風へ挽(ひ)き回したいものである。



【安岡正篤】

「上下とも表裡両般の心ありて治めにくし。何分此六かしみを去り」

表と裏がある、見えない所がある。陰で何をするかわからないというように「六(むつ)かしみ」を去って、ということ。この「六(むつ)かしみ」は当て字です。こういう所、大学者の一斎先生、一向にこだわらずに、五、六の「六」の字をくだけて使っている。

普通なら艱難の「難」の字を使うのですが、こういうユーモアといいますか、屈託がないといいますか、ここの文章の一つの特徴です。



十六.

物事を隠す風儀甚だあしし。

物事を何でも秘密にしようとする風儀は非常に悪い。

機事は密なるべけれども、打ち出して能(よ)き事迄も韜(つつ)み隠す時は却って衆人に探る心を持たせる様になるもの也。

大切な問題は秘密でなければならぬが、明け放しても差し支えのない事までも包み隠しする場合には、かえって人々に探ろうという心を持たせるようになってくる。



十七.

人君の初政は、年に春のある如きものなり。

人君が初めて政事をする時というのは、一年に春という季節があるようなものである。

先づ人心一新して、発揚歓欣の所を持たしむべし。

まず人の心を一新して、元気で愉快な心を持たすようにせよ。

刑賞に至っても明白なるべし。

刑賞においても明白でなければならない。

財帑(ざいど)窮迫の処より、徒(いたず)らに剥落厳沍(げんご)の令のみにては、始終行き立たぬ事となるべし。

財政窮迫しているからといって寒々とした命令ばかりでは、結局うまくいかないことになるだろう。

此の手心にて取り扱いあり度(たき)ものなり。

ここを心得たうえでやっていきたいものである。



【安岡正篤】

「財帑(ざいど)窮迫の処より、徒(いたず)らに剥落厳沍(げんご)の令のみにては、始終行き立たぬ事となるべし」

金がない、予算がないというところから、いたずらに「あれもいかん」「これもいかん」という。「沍(ご)」は冷える、寒いという字ですから、きびしくしめ、寒々とした令だけの政治では、始終行き立たぬことになるだろうといって、最後に「此の手心にて取り扱いあり度(たき)ものなり」と結んでいる。








【安岡正篤】

いま読みました「重職心得箇条」は、じつによく機微をうがって、しかもあまり窮屈でなく、どこか余裕しゃくしゃくとしたところがあり、名作の名に恥じないものだと思います。

こういうものは、ただお話しただけでは印象にあまり残りませんので、耳と同時に眼を働かせて読み、読みながら聞くというふうにして、あとあとまで心に滲み残るように一緒に読みながらご説明した次第です。

先ほども申しましたように、重要な職務に当たりますと、知識をもつだけでは何にもならないので、知識に基づいて批判する、判断する、つまり見識を立てて、そうしてこれを実行しなければなりません。このように、先哲、先賢の言葉や行い、言行を知る、学ぶ、行う。これを「活学」というゆえんです。






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