話:藤沢周平
今日は薬が切れる日なので、一茶(いっさ)は医者に薬をもらいに来たのだが、もうひとつ買物があった。(父)弥五兵衛がしきりに梨を喰いたがっていた。
一茶の家の者は、親戚知人をたずね回って梨を探したが、季節はずれの秋の果実を残している家はなかったのである。善光寺へ行けば、どこかにあるかも知れないという気がした。一茶は薬もらいの役をひきうけ、ついでに梨を探すつもりで、朝早く柏原を発ってきたのである。
一茶は梨を喰わせたかった。弥五兵衛の容態は、野尻の医者がサジを投げたころにくらべると、幾分元気が出て、時どき異常な食欲を示したりしたが、それが回復につながるものかどうかはわからなかった。むしろ少しずつ痩せ衰えて行くように見えることもあった。
喰いたいというものを与えなかったら、後で悔いが残るかも知れないという気もした。そして、何よりも梨を見て喜ぶ父の顔が見たかった。
一軒の青物屋に、一茶は入って行った。
「梨を置いてませんか」
「梨? いまごろ?」
店の者は、一茶を怪訝そうに見た。
「あれは秋のものですよ、あなた」
商いにならない客とみると、店の者の口調はそっけなく変わった。
「いまごろ置いてるはずはありませんや」
「季節はずれはわかっていますが、どっか残っている店はないものかと思いましてな」
「そりゃ無理だよ、あんた、いまごろ梨なんて」
店番の男の表情は、はっきり嘲笑になった。
「ほかのもんじゃ間に合わないんですかね」
「いや、私がほしいのは梨です」
と一茶は言った。かたくなな気持になっていた。一茶はものも言わずにその店を飛び出した。
一茶は、青物屋、乾物屋をみかけると、片っぱしから入りこんで、梨はないかと聞いた。そして次次にことわられた。最初の店のように嘲りはしなくとも、大方はそっけない返事をした。
ことわられるたびに、一茶の頭の中で、一個の梨はみずみずしくかがやきを増して行くようだった。だが、梨は見つからなかった。形さえあれば、干からびたようなものでもいい。最後に一茶はそこまで執着したが、結局は無駄歩きだった。
善光寺の門につづく、ゆるやかな坂道の途中で、一茶は立ちどまった。あきらめるしかなかった。やはり無理だったと思った。そう思ったとき、梨はようやく光を失って、一茶の熱い頭の中から消えて行った。
…
引用:『一茶』藤沢周平
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