2014年4月4日金曜日

赤いニシンに騙されて [内田樹]


話:内田樹「初学者を極意に導く方法について(抜粋)」


 いったいどういう方たちがこの本(『天狗芸術論・猫の妙術』佚斎樗山)を買うのでしょう?

 

たぶん武道の稽古を始めて数年というくらいの人たちが購入者のヴォリュームゾーンではないかと思います。武道を稽古して五年、十年という人々が、この本のタイトルを知らないということはありえません。

 もし、あなたがかなりの年数にわたって武道を稽古してきたにもかかわらず、この2つの武芸伝書(『天狗芸術論・猫の妙術』佚斎樗山)の話を、師匠からもまわりの道友の口からも「一度も聞いたことがない」としたら、あなたが稽古しているのは武道ではなく、なにか別のものです。それは『風姿花伝』という書物の話をまわりの誰からも聞いたことがないという人が稽古している芸能は、たぶん能楽ではないというのと同じくらい確実なことです。

 武道家にとっての必読文献というものがあります。澤庵(たくあん)禅師の『太阿記』、『不動智神妙録』、柳生宗矩の『兵法家伝書』と並んで、この佚斎樗山(いっさい・ちょざん)の『天狗芸術論』と『猫の妙術』は、たぶんそのリストの初めの方に掲げられるものです。



 なぜ、この2つのテクスト(『天狗芸術論・猫の妙術』)が江戸時代から久しく武芸を志す者にとっての必読文献とされてきたのか? その理由について個人的意見を述べて、本書の解説に代えたいと思います。

 佚斎樗山(いっさい・ちょざん)は『天狗芸術論』の中で、当今の武芸者についてずいぶん手厳しい評言を下しています。
「今人情薄く、志切(せつ)ならず。少壮より労を厭ひ、簡を好み、小利を見て速やかにならんことを欲する(巻之一)」。今の人は速成を好む。面倒が嫌いで楽をしたがり、「どうやったらさっさと巧くなれますか」と聞いてくる。少ない修業で効率的に極意に達することのできる費用対効果のよい稽古をしようとする。それが当今の趨勢である、と佚斎樗山は嘆いています。

 江戸時代の半ばにして、すでに武士たちは昔のように「いいから黙って修業しろ」というだけでは稽古に励まなくなってしまいました。しかたがないので、師匠のほうから手を差し伸べて、初心者に極意のありかを示し、手をひいてそこまで連れて行くような教え方をせねばならなくなった。この書は、初学者の「手を執って」極意まで曳いて行くための本なのです。

 でも、極意というのは初学者に「はい、これが極意です」とお見せできるようなものではありません。極意が何かを知らない人間をあやまたず「極意のある方向」に導いてゆくにはどうすればいいのか?

 たとえて言えば、「京都がどこにあるか知らないで東京駅をウロウロしている旅行者を、西行きの新幹線ホームにまで連れて行く」ようなことをしなければならない。佚斎樗山のこの本が優れているのは、その点においてです。つまり、「京都がどこにあるか知らない旅行者」をとりあえず京都行きの新幹線に乗せてしまう。その実践的有効性において、本書は卓越しているのです。



 江戸に幕府がひらかれて平安の時代がすでに100年。武士たちにも、白刃をまじえる斬り合いのなかで極意を会得するというような機会はなくなってしまいました。でも、先人が命がけで完成した武芸の伝統は継承されなければならない。

 そういう特異な歴史的状況が要請したのが「初心者フレンドリーな伝書」です。そんな本が書かれたのは日本武道史上たぶんこの時が最初です。ですから、著者(佚斎樗山)はまったく独特の、それまでに前例のない構成上・文体上の工夫を余儀なくされました。

 それは初心者を”正しい方向にミスディレクトする”という方法です。「ミスディレクト」というのは「間違った方向に導く」ことですから、「正しい方向にミスディレクトする」という言い方は理論的に矛盾しているように聞こえるでしょうけれど、本当にそうなのです。

 もう一度さっきの比喩を使いますけれど、東京駅でウロウロしている旅行者を「正しい方向」に連れて行くために「京都はこっちだよ」と言ってもダメなんです。だって、「京都って何?」というレベルの旅行者なんですから。でも、とにかく西行きのホームに連れて行かなければならない。見ると、どうもお腹が空いているようである。すると「駅弁買いたいんじゃない? 駅弁こっちだよ」と手を曳いて、西行きホーム近くの売店に導く。

 そういうふうに、初心者でもわかるその都度の実践的な課題に解答するかにみせかけつつ、ほんとうの目的地に連れて行く。この「京都に連れて行くために駅弁屋に連れて行く」というのが、「正しい方向にミスディレクトする」ということです。



 極意というのは、先人がそれだけ身銭を切って獲得した知見です。初学者がぱらぱらと本を読んだくらいで、「なるほど、そうか。相わかった」と膝を叩くというような安直なことは起こりません。それなりの手間暇をかけなければ「たいせつなこと」はわからない。

 でも、はじめから「手間暇がかかる」と言ってしまうと、「労を厭ひ、簡を好む」初学の人は「そんな面倒なことなら、僕はいいです」と修業をやめてしまう。それでは困る。そこで、初学者をして、それと気づかぬうちに、彼らの理解を絶した境地へと誘うための「仕掛け」を施したわけです。正しい旅程を歩むために、初学者は”大いなる迂回”をしなければならない、というのが著者(佚斎樗山)の戦略でした。

 そのために「わかりにくいことを、わかりやすい言葉で書く」という戦略を著者は採用したのです。どうしてこの戦略が有効かというと、それは「わかりやすい言葉」が「レッドヘリング(赤いニシン)」として機能するからです。



 「レッドへリング(赤いニシン)」というのは、ミステリーなどで読者を間違った解答へ導くミスディレクションのことです。

 もともとは狩りの用語です。狩猟犬を訓練するとき、赤い薫製ニシンを途中に仕掛けておきます。ニシンの匂いにつられて、本来の獲物を追うのと違うコースに逸脱してしまった犬は飼い主にこっぴどく叱られます。「レッドへリング」はあやまたず目標をめざして走る能力を育成するために、わざと仕掛けられるのです。

 アルフレッド・ヒッチコックは「レッドへリング」の名手でした。映画の前半で「いかにも犯人らしい人間」を前景に押し出し、観客自身に「謎解き」をさせるのです。観客は映画を観ながら「あ、こいつが犯人で、事件の真相はこうなのだ」と得心して膝を打ち、「監督を出し抜いた」とほくそ笑みます。そして、これから後の物語が自分の予想通りの展開になることを予測して、わくわくしながら映画を観つづけます。

 もちろん、映画はそのあと予想もしない大ドンデン返しに突入して、観客は仰天させられることになるのですが、ヒッチコックは別に観客を愚弄してそんなことをしているわけではありません。これは間違いなく観客へのサービスなのです。

 というのは、何も考えずにぼんやりプロットを追っている受動的な観客よりも、この「レッドへリングにひっかかった観客」の方がはるかに深く映画に没入し、はるかに多くの映画的悦楽を享受することができるのです。



 「ミスディレクトされた観客」の方が、騙されなかった観客よりも遠く、深くまで映画の中に参入することができる。行き先を「勘違い」した旅人の方が、行き先がわからないでぼんやりしている旅人より歩みが速く、踏み込みが深い。

 おわかりでしょうけれども、伝書における「わかりやすい言葉」は「レッドへリング」なのです。「わかりにくいこと」を教えるときにわざと「わかりやすい言葉」を使うのは、初学者を「ミスディレクト」するためなのです。「なるほど、修業の目的はこの方向なのだな。わかった!」と膝を打たせるために、わかりやすい言葉、つまり誤解されやすい言葉をちりばめてあるのです。

 久しく座右にあった伝書を取り上げて読んでみたときに、10年前と同じような読み方しかできないということは、どんな凡庸な武道家にもありえません。必ず「自分はなんと浅い読み方しかしていなかったのだろう」とひとり赤面することになります。必ず、なります。それが伝書の効用です。「わかった」と「ひとり赤面」を繰り返す。その反復を通じて修行者はしだいに武道修業の要諦について自得していくことになるのです。

 それは、”自分がかわったつもりでいることは、だいたい間違っている”ということでもあります。これが武道修行者が繰り返し、骨身にしみて会得しなければならない修業上の大原則です。





 本書収録の二編(『天狗芸術論』と『猫の妙術』)はいずれも「読んでわかったつもりになる」ための本です。それでよいのです。何年かして読み返して、以前の自分の「わかったつもり」に赤面すればいい。それを何度も繰り返せばよいのです。そのために書かれた本なのですから。

 『天狗芸術論』も『猫の妙術』も、中学修了程度の古文の知識があれば読めます。出てくる鍵語の大半も日常語です。「所作」も「気勢」も「無心」も「自然」も「精神」も、僕たちはその語義を熟知しているものとしてふだん用いています。ですから、初学者はかならず現代語の語義を当てはめてこれを読みます。自分の知っている言葉が「現代語の語義とはまったく違う意味」で使われている可能性を吟味したりはしません。

 ですから、逆説的なことですけれど、「意味がわかりそうな箇所」が伝書を読むときのピットフォール(落とし穴)なのです。「自分の日常感覚の延長でなんとなく類推できること」についての話はうっかりわかったつもりにならない方がいい。

 逆に、「自分の日常感覚ではまったく類推できないこと」については、気にしなくいい。そこにはピットフォールもないし、レッドへリングも仕掛けられていないからです。たとえば、「存在しないもの(大天狗や説教を垂れる老描など)」について書かれた箇所には誤解の余地がありません。



 私たちが誤解できるのは、「正しい理解」と「間違った理解」が併存する場合だけです。そうした箇所は全部「謎」です。すべてが「レッドへリング」であるというくらいの警戒心をもって読む方がいいです。

 でも、繰り返し言うように「レッドヘリング」に騙されて、自分なりの「読み筋」を作り上げるというのは、修業上の必然なのです。騙されて、誤読して、いいんです。そのために書かれて本なのですから。

 そういう迂回をスキップして、「レッドへリングなどに惑わされたくない、まっすぐに極意に達したい」と望むことこそ、佚斎樗山の言う「労を厭ひ、簡を好む」ことに他ならず、まさに初学者の初学者たる所以なのです。



 僕が書いているこの解説ももちろん、この二篇の解説としては間違っていることでしょう。

 ”間違っているに決まっている”

 僕程度の武道家に、こんなに簡単に「解説」されてしまうような文書が300年も読み継がれているはずがありませんからね。

 でも、それでいいんです。

 修業というのは「オープンエンド」なんですから。






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