話:佘雪曼(しゃせつまん)
欧陽詢(おうようじゅん)は陳、隋より唐の初期にかけての書家である。
詢は顔かたちが非常に醜かったが、たいへん聡明で、いつも本を読むのに数行を一度に読み下した。詢は初め王羲之(おうぎし)の書を学んだが、のち次第に書風が変わり、筆力の強いことでは、当時及ぶものがなかった。人々はその書簡などを手に入れると、みなお手本にしたという。高麗(朝鮮)でもその書を重んじて、千里の道をも遠しとせず、使者を遣わしてその筆跡を求めさせたほどであった。
ある日かれは、路辺に晋代の名書家・索靖(さくせい)の書いた碑を見て、二、三歩行き過ぎたがまた戻り、その傍に三日とまり、ようやく帰った、と伝えられる。
欧陽詢は隋の時代に育った人である。書学を深く研究し、青年時代には王羲之の黄庭経(こうていきょう)を習ったことがある。貞観のはじめ、さらに蘭亭叙(らんていじょ)をも習っている。だからその結体は晋の法にかない、健康でたくましく、またよく整っているのである。これが南派の特徴である。
だが、欧陽詢の厳つく強いところ、すなわち筆を下すこと、刀で斬り斧で裂くような切れ味のよさは、北派の影響である。かれが書いた房彦謙(ぼうげんけん)の碑は、かれが北派の書家であることを示している。この楷書と隷書の筆法を混ぜたような書体、刀を折ったような筆の入れ方が、すなわちその証拠である。
字を書くのに、穏やかなのは易しいし、奇抜なのも易しい。だが欧陽詢の書は、奇抜なのに穏やかに見える。奇きわまって正となったのである。これは容易なことではない。なぜかというと、かれは字の結構を深く研究し、そうした実践の中からはじめて自己を創造し得たのである。
店や画の俯仰向背、分合聚散は力の均衡にかない、それによって混んだところ、空いたところ、曲がったところ、平らなところが適当に布置され、変化に富んだものとなっているのである。だから彼の字は、混みいっていても、空いていても、しっかりと落ち着いているのである。これは身を傾けて車を速く走らせる姿が、いかにも安定して美しく見え、また決して倒れないようなものである。欧陽詢の書の結体のうまさは、まさにこうしたところにある。
つまりその特徴は、王羲之父子の技法に、北碑の強いところ、さらに漢隷、章草など、種々の要素をとり入れ、思い切った新しい様式を生み出したところにある。一つのものにとらわれるということがないので、その書いた字は、角ばっていても筆に丸みがあり、穏やかでありながら強いのである。そして南北両方の長所を兼ねそなえているのであって、わが国(中国)の書法芸術に新たな境地を開拓したものといえよう。
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引用:楷書 九成宮醴泉銘(欧陽詢) (書道技法講座)
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