2014年4月6日日曜日

「田崎休愚」の話 [民間さとし草]


 川尻といふ所に、田崎休愚といふもの、貧しかりしが、のちは郷士になりけり。

 若かりし時、舅(しゅうと)の方へ行くに、家産(みやげ)持ちて行かんとおもふに、さるべき物なかりければ、その辺にて小さき”ぎぎ”といふ魚を網して取り、それを持ちて行きしに、山中に猟師の網を張り置けるに雉(きじ)のかかりはためくあり。「これ、いと良きつと(贈り物)なり」と思ひて、やがてかの雉をとり、「ただにやは」とかの”ぎぎ”を代はりにかけ置きて過ぎぬ。

 さる後へ猟師来たりて、かの魚を見て、驚き怪しみて、「川のものの山網にかからんやうなし。これは神などのさとし(お告げ)にこそ」とおもひ、人々に語るに、同じように畏れければ、やがてさるべき験者むかへきて、ことのやう語るに、はたして「これ山の神の、この里に祟りあるべき徴(しるし)なり」とて、まずかの”ぎぎ”を桶に水たくわへて入れ、宮を作り、大明神と崇め祭るめり。

 さる程に、神、人に憑きて云やう、「我に贄(生け贄)を奉れ。さらずば一里の人、生けたらじ」とのるに、あるかぎり魂をけし、相はかり、黄金十両あつめて、「これに替えん命あらば」と近くも遠くも求むるに、「誰かえん」とて出る者なし。

 かの休愚おのこ伝へ聞く。やがて老いさらばへる姥(うば)、語らひ出てかの所に行き、「さること伝へききぬ、誠にや。己は貧しきが身にせまり、今は『身をや投げてん』『縊(くび)れてやうせなん』とおもへど、老いたる母さえありて、さることもえせで、苦しき月日を送るなり。そのこと空言にあらずば、これぞ天のたすけと覚ゆる。そも命の量、いくらばかりかは賜はらんや」といふ。

 里人ら悦びて、あるやう語る。「さはその金たまへ。母に持たせて、すかして(説得して)こそ帰りしはべらめ」と、かの姥に黄金もたせて、口に耳つけて何かいひけるが、姥は帰りぬ。「さは贄(生け贄)にそなはらん」とこふ。やがて、かの宮の前へ連れて行き、大なる板の上に結はへ付け、締め引きて、「あな憐れや。夜のほどに食われん。いかに苦しき目をか見んずらん」などいひて、里人は帰りぬ。

 丑三つ(午前3時頃)ばかりまでは、「もし窺ふ人もぞある」とためらひしが、「今は心やすし」とて、力声を出して両ひじ強くはるに、縄はぶつぶつと切れぬ。やおら起き上がり、宮の戸を開き、とうろの火してみれば、桶の中にかの”ぎぎ”、ありしよりも膨らかになりておるを引き出し、木の枝あつめ、豆汁して煮物とし、酒よよとのみ、舌うちして、いとなき物と食ひ尽くし、宮も鳥居も引倒して帰りぬ。いとおこのわざにこそ。

 世に神の祟りあるは、もののけ、狐などの人に憑くといふを見聞くに、まさしく神のみことのりめき、恨みある人のいふべきことをのり、狐の様して歩くなど、みな癇といふ。病にて神やうつりはまへるといへば、「又さりや」とおもふ。おもふよりやがて、さる物になるめり。それをとかで惑ふも癇の類ひにて、痴といふ病なり。心を覆はるるは、ともに等し。この物語の神の憑きたるにて見よ。これはたしるしとせずばあらじかし。



【解説(湯城吉信)】

 貧乏から金持ちになった田崎休愚という川尻の人がいた。

 休愚が若いとき、舅を訪ねるのに土産がなかったので、”ぎぎ”という魚を捕って出かけた。途中の山中で、猟師が仕掛けた網に雉(きじ)がかかっているのを見つけた。休愚は「これはいい贈り物になる」と頂戴し、その代わりに例のぎぎを置いていった。

 猟師が来て、川のものが山の網にかかっているのを恐れ、神のお告げなのではないかと思った。そこで、社が造られ、ぎぎという魚は桶に入れて大明神と崇め奉られた。さらに、「生け贄を奉らなければ村人を皆殺しにする」と神託があった。村人は恐れ、十両の金を集め、生け贄になる人を募った。

 この話を聞いた休愚は、母を連れて行き、「私は貧しくて自殺も考えるほどですが、老いた母のことを考えると死ねません。今回のことは天の助けかと思いました。私を生け贄にしてください」と語った。そうして、受け取った黄金を母親に持たせて帰らせ、自分は板に張りつけられ、社に捧げられた。

 夜中になって、縄を解いて、宮の中を見てみると、ぎぎが桶の中で以前よりも太っていた。そこで火をたき汁物にして、酒を飲んで食い尽くし、宮も鳥居も引き倒して帰った。

 世の中で祟りとか言っているのは、たいていこのような類いである。迷信はたいてい、根も歯もないことである。




出典:『民間さとし草』加藤景範

0 件のコメント:

コメントを投稿