2014年4月20日日曜日

竹影と月 [鈴木大拙]


話:玉城康四郎


 それでは、悟りの事実とは、どういうことであろうか。

 彼(鈴木大拙)によれば、”禅の事実”と”禅の哲学”とは、きびしく区分されている。世の多くの禅学者は、この2つを混同しており、そのために禅の生命を見失っている、という。

 ”禅の事実”というのは、生活そのものである。日々の経験そのものである。手を動かし、足を運ぶ、そのことである。これに対して、手を動かすのは自分である、足を運ぶのは自分である、という意識が出てくると、立ちどころに、禅の事実は消える。それは分別の世界にすぎないからである。禅の事実は、分別のかかわらない行為そのものである。だから、感覚の世界のほかに超感覚の領域がある、といっても、また、相対我を越えて絶対我が存在する、と説いても、それはすべて哲学にすぎない、禅の事実ではないことになる。

 しかるに、われわれの日常生活は、つねに分別にとらわれているから、その分別を突破るところの禅体験が要請されたのである。



 このような禅の事実を、われわれの心構えから押していくと、”無心”という態度が出てくる。彼(鈴木大拙)は、この無心ということに異常に情熱をよせ、つねにこの無心の世界にあることに、たゆみない精進を重ねていったと思われる。

 無心の代表的な表現として、彼は好んで次の句を引く。

「竹影、階(きざはし)を払って塵動かず、月、潭底(たんてい)をうがって水に痕(あと)なし」

 竹の葉がそよいで、その影を石段の上にゆるがすが、段の上の塵は少しも動かない。また、月が淵の底をうがって影を落としているが、水にはその跡形もない。

 これはいかにも詩的であるが、そのまま無心の世界をあらわしている。ここには、もはや無心という態度さえもない。われわれのいかなる態度も消滅してしまって、あたかも木石のごとき観がある。第三者から見れば、とりとめもなく茫漠としているが、その人自身にとっては、これ以上確かな世界はない。



引用:
鈴木大拙『道の手帖
「仏教思想の国際性」玉城康四郎


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