2014年4月22日火曜日

「おのずから」 [鈴木大拙]


話:志村武


先生(鈴木大拙)は

「『誠はおのずから成るなり』というが、その『おのずから』が大切なのだ。『おのずから』にかえるようにしなければならぬ。それが一番大事なのだ」

 といわれているが、先生の目の前には、先生だけにしかできない仕事が山のように積み上げられ、それを先生は

「疲れたら寝るのだ。いつでも眠くなったら眠る」

という態度で次々と片づけていかれた。つまり「おのずから」処理していかれたのである。



この「おのずから」については、名著『無心ということ』のなかで次のように述べられる。

「もうそろそろ雁がわたって来る季節になりますが、雁が天空を飛ぶと、その影が地面のうえのどこかーー否、この目前にたたえられている水の上にちゃんと映っているではないか。雁には自分の姿を映そうという心持ちはないのだし、水にも雁の姿を映そうという心がない。一方には跡をとめる心がなく、また片一方にはそれを映しておこうという心もないが、雁が飛べばその影が水に映る。心なきところに働きがみえる…」

心なきところに見える働きが「おのずから」であり、その無功用行(むくゆうぎょう)のうちに、鈴木大拙の幸福があったのだといえる。

大拙「幸福は苦しみを超越したところにある。幸福は因果応報を出たところにあるのだ。だが、それを出るということは、因果をはなれて因果を見るのではない。因果のなかに入っていながら、それが楽しみそのものになるのだ。禅宗のほうではこの点を強調する。地獄へいって、針の山にいるのが苦しいかというと、自分を捨てているとすれば、その苦しみに苦しみながらも、それが楽しみになるかもしれん…」

西田幾多郎「大拙は身辺に事があると、こまる、こまる、といっているが、あまり困っているようでもなかった」



先生の人生には、春になると花が咲き、冬になると雪が降るというような、自然そのままの味わいがあった。先生は、微風にそよぐ一輪のコスモスにふと足をとめる。

「花はよく春を忘れないで咲くものだ。花自身からいえば、花咲くのではない。ひとりでに咲いて散るだけのことだ。花はなんの造作もなく、無為にして咲き出てくる…」




引用:
「也風流庵 家語」志村武







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