2016年12月15日木曜日

ネコ背になる本当の理由とは?[小池義孝]






〜小池義孝『ねこ背は治る!』より〜


知れば、ねこ背が治る!


胸をはって背筋を伸ばす。

そのような格好を「良い姿勢」だと思っている人がほとんどです。

私も子供のころ、嫌というほど、この姿勢をしつけられました。少しでも気をゆるめると、「背筋、ピンッ!」と母の厳しい声が飛んできたものです。がんばってこの格好を維持していれば、やがては良い姿勢が当たり前になる。その頃は、そんな風に漠然と考えていました。それは母も同じだったようです。

何年も何年も、根気よくしつけられ続けられましたが、私のねこ背が矯正される様子はありませんでした。この方法でねこ背を矯正するのは、私には不可能だと、ついには諦めました。これが20代半ばのころです。





結局は、無理に背筋をのばす解決方法が、そもそもの間違いです。それでは「姿勢が悪いから、姿勢が悪い」と言っているようなものです。ねこ背になってしまう原因は、決して「ねこ背だから」ではありません、正解を知れば、姿勢の改善は一瞬です。

人間がねこ背になってしまうのは、立っている時、座っている時です。寝ている時にはねこ背になりません。これは当たり前ですけれども、もう一つ、ねこ背にならない状態があります。

それは膝立ちをしている時です。膝立ちをしていると、背筋がスッと伸びます。実際に試してみてください。いかがでしょうか。普段はねこ背ぎみの人でも、自然な形で良い姿勢になれたと思います。無理にがんばって背筋を伸ばす必要もありません。





ではなぜ、膝立ちだと姿勢が良くなるのでしょうか?

全身の骨格図を見てください。大腿の太い骨を「大腿骨(だいたいこつ)」と呼びます。骨盤と上半身全体が、大腿骨に支えられています。太く頼もしい骨に乗っているので、骨盤が安定しています。変な傾き方はしていません。ですから背骨もその上で、きれいに伸びていられます。

美しい姿勢は、こんな風につくられていきます。骨が骨を自然に支えて、無理のない状態です。





また、右膝のアップの図を見てください。膝が一点で重さを支えているのがわかります。膝のすぐ上には大腿骨があります。

膝立ちは無条件に、大腿骨で身体を支える姿勢をつくります。大腿骨に上手に乗れば、人間は良い姿勢に楽に到達できるのです。

良い姿勢とは、このように、骨が自然と立っている状態を指します。決して無理に背筋をのばして、強引につくるものではありません。膝立ちをした時に、楽にスッと伸びる背筋。ここに正解があります。



膝立ちのときは良くても、足の裏で立つと、やはりねこ背に戻ってしまいます。今から、その理由を説明します。ねこ背が治る光明は、もう見えています。

膝で立つのと、足の裏で立つのとでは、何が異なるのでしょうか。大腿骨は膝と接していますが、足の裏からは遠く離れています。この違いがあります。膝の下にスネの骨が2本あって、足首があります。その下に足の裏です。

大腿骨に乗るためには、つながるスネの骨に乗らなければなりません。スネの骨は2本ありますが、乗るのはもちろん、内側の太い方の骨です。外側の細い方では、体重を乗せるには頼りありません。太い骨のサポートぐらいに考えておいてください。





下の図の◯印は、足の裏から見たスネの太い骨の場所です。この場所に体重を乗せてください。肩幅くらいに足を広げるとわかりやすくなります。

そうするとスネの太い骨に乗って、大腿骨に乗って、膝立ちと同じような状態になります。少し内側に絞るイメージになります。





足の裏は地面に触れている面積が広いので、膝立ちのように一点では支えられません。スネの太い骨を中心にして、広範囲で支えるようなイメージになります。

この時に、スネの太い骨に乗る意識を強くもってください。



スネの太い骨に乗れたら、今度は全身の力を抜きます。

そして自分の背筋を意識してください。スッと楽に、自然に伸びていれば成功です。無理に胸をはって、背筋を強引に伸ばすのとは違います。背筋自体には、まったく力を入れていません。

これが本当の「良い姿勢」です。

おそらくあなたは今まで、こんなにも脱力して立った記憶がないと思います。上手に骨格で身体を支えてあげると、立っている姿勢とは、ここまで楽なものです。立ったまま休んで、疲れた身体も癒せるほどです。



ねこ背になる、本当の原因


ねこ背になる本当の原因は、正しく骨に乗れていないからです。

足の裏は広いので、つま先から踵まで、好きなところに体重をかけられます。体重をかける場所を、スネの太い骨から外すと姿勢が崩れてしまいます。

ねこ背は「結果」ではありません。足の裏の間違った重心のせいで、倒れそうになる身体を修正する「手段」です。手段を矯正して治そうとしても、うまくいくはずがありません。無理に良い姿勢に見えるものをつくって、身体に辛い思いをさせるだけです。表面だけを追ってしまうと、このゆに間違いに間違いを重ねてしまいます。



ねこ背になってしまう原因として、足の裏の重心の場所は、あまりに小さ過ぎるものです。ほとんどの人から見過ごされてきたのも仕方ありません。

ねこ背は、原因と症状が同じものと考えられてきました。それが常識でした。先ほども申し上げた「ねこ背だから、ねこ背になってしまう」という理屈です。



正しく座る


では、座っている状態では、どのように考えればよいのでしょうか?

大腿骨の下がスネの太い骨ですから、上は骨盤です。骨盤にきれいに乗るのが、座っている場合の正解です。

骨盤には「坐骨(ざこつ)」という骨があります。椅子に座ったときに、下に当たる骨です。





坐骨の角度をみてください。

前が狭く、後ろが広くなっています。これには意味がちゃんとあります。もし坐骨が真っ直ぐに平行だったら、安定が悪くて仕方ありません。左右にグラグラとして、落ち着いて座れません。改めて人間の身体は機能的にできていると感心します。

骨盤にきれいに乗るためには、うまく坐骨を活かします。坐骨を外すと、身体は極端に不安定になります。不安定な身体のバランスをとるためには、やはり姿勢を悪くするしかありません。

基本的な理屈は、立っているときの場合とすべて同じです。坐骨を外して前に体重をかければ、ねこ背になります。外すのが後ろなら仰け反ってしまいます。



正座やあぐらでも、理屈は同じです。正座の場合には坐骨の下に自分の足があります。坐骨をきれいに足に乗せられるように調整して、力を抜いてください。

背筋がスッと伸びると、椅子に座ってやる作業が楽になります。正しい座り姿勢では、骨格が体重を効率よく支え、筋肉の負担は最小限に抑えられます。長時間の作業も楽になります。

パソコンのキーボード操作でも、首や肩の負担は減り、キーボード操作も軽快になります。目からきていると思っていた首と肩のこりは、じつは姿勢のせいだったということもあるかもしれません。



正しい姿勢とは、骨格にうまく体重を預けて、リラックスしている状態です。力が抜けているので、必要な筋肉がすばやく反応できます。

なんだか武道の真髄のような話ですが、実際の日常生活にも通じるものがあります。



原因の最初から正さないと、満足な結果はでません。

スネの太い骨に体重を乗せる。坐骨に乗る。たったこれだけのことで、手強かったねこ背は自動的に正されます。真相は意外なほどにシンプルです。

あなたがこの事実を伝える発信源になって、ぜひ一般常識を変えてしまってください。

1. 膝立ちから説明して

2. スネの太い骨に乗る、

3. 坐骨に乗る

という順番だと、伝わりやすいです。








出典:小池義孝『ねこ背は治る!』




肺は思ったより大きいゾ![小池義孝]






〜小池義孝『ねこ背は治る!』より〜


酸欠状態の恐ろしさ


人間の身体は取り込める酸素量が少なくなると、その少ない酸素で、なんとかやり繰りをしてバランスをとろうとします。すべての組織や細胞が、平等に酸素不足になってしまう訳ではありません。つまり優先順位を決めて、酸素の配分調整をします。

それをするときに、まず重要なのは「死なない」ことです。脳や内臓の機能が落ちてしまったら危ないので、こうした生命活動の大切な部分は優先的に守ろうとします。その分、どこかを酸欠にせざるを得ないことになります。歩いたり、立ち上がったり、手をついたりする、身体を動かすための筋肉にしわ寄せがいく形になります。

家計を預かる主婦が、限られた収入のなかで懸命にやり繰りをして頑張っている姿に似ています。



しかし優先順位が下になってしまっても、その組織や細胞を殺してしまうほど追い込んではいけません。細胞が生き続けられるぐらいの最低限の供給はおこなおうとします。

その結果、全身の筋肉のあちらこちらに、死ぬほどではないけれども満足に機能できない部分がつくられてしまいます。また身体はその際にも、筋肉と筋肉とのあいだで調整をおこなっているかもしれません。

足を上げたり、身体をねじったり、ある動作をおこなう際には、通常は複数の筋肉が協同して作業にあたっています。歩けなくなるなど、特定の動作がまったくできなくなってしまわないよう、身体は何とかバランスを取ろうとします。

脳や内臓ほどには重要と考えていなくても、歩けなかったり起き上がれなかったりしたら、それはそれで深刻な状態です。場合によっては生命の危機ですらあります。ですから、よほどの不足でない限り、筋肉を酸欠で追い詰めるようなやり方はしません。



この無意識の調整が、自覚できない酸欠の問題を深刻にしています。

その人は日常生活に特別な支障を感じておらず、自分の身体の機能が落ちている事実すら把握できずに、毎日を過ごしていってしまうからです。

ですが、この筋肉の酸欠状態は、筋力検査をすればすぐに明るみにでます。治療院の現場でも、特定の筋肉にほとんど力を入れられない状態だけれども、本人は特に日常で問題を感じていなかった例が数多く確認されています。原因は酸欠だけの問題とは限りませんが、呼吸が改善されたときに、ケースの多くが同時に改善される傾向があります。

この配分調整の動きは、現代医療の目を惑わせているようです。現代医療では酸欠状態か否かを「血中酸素濃度」の測定によって判断します。けれどもこの測定方法では、今お話しているような酸欠状態はでてきません。



ある高齢の入院患者さんに出張施術をおこなった時のことです。あまりにも呼吸が浅く、顔色も暗く悪くなっていました。本人も息苦しさを感じており、息も絶え絶えでまともに話をするのも難しい状態です。

施術によって呼吸が深く楽になると、顔色も赤みがでてきました。そこでお話をお伺いして、驚きました。血中酸素濃度が正常値であったため、病院で呼吸には何も対処をしていなかったのです。

見れば息苦しそうで顔色も悪い。素人目にも異常が明らかな患者さんを、数値上は正常だと放置していたのです。この部分については、医療の分野も、早急に考え直してほしいです。





筋肉が酸欠をおこせば柔軟性が損なわれ、硬直してしまいます。それは血流を悪くさせ、身体を冷やします。

血流の悪さと身体の冷えは、東洋医学で言われる”未病”状態です。未だ病気ではないけれども、その予備軍で、いつどんな病気になっても不思議ではない危険な状況です。じつは現代社会の多くの人が未病状態で生活しています。そして問題なく健康だと考えている人の多くも、未病の少し上にいるだけで、あまり差がありません。

慢性的な酸素の欠乏は、このようにして結局はその人の生命活動の中枢を脅かしてしまいます。またそれがさらに呼吸を浅くさせる原因になり、悪循環に陥っていきます。酸素の欠乏は人間の生命活動の根幹にかかわります。



呼吸を深く安定させよう


呼吸が浅くなるのには、さまざまな原因が考えられますが、その中にはほぼ全員が抱えている「共通の問題」が存在しています。この問題を解決するだけでも、あなたの呼吸は大幅に改善できます。

このイラストをよく見てください。下は肋骨の底辺近く、上は鎖骨を少し越えたあたりまで、肺は大きく広がっています。このイラストのイメージを5秒、じっくりと観察してください。そうしたら、ゆっくりと深呼吸してみてください。




どうですか?

胸の上の方、鎖骨近辺が膨らんでくるのが感じられましたか?

もしそれが感じ取れたなら、この試みは大成功です。

では次に、このイラストをご覧ください。





肺は背中側に大きく広がり、背骨の真ん中あたりまで及んでいます。

このイラストのイメージをまた5秒、じっくりと観察してください。また同じように、吸うときの身体の動き方をよく観察しながら、深呼吸を2、3回くり返してください。

今度は自分の背中が大きく膨らんだのを、感じとれましたか? 今さっき確認した鎖骨の周辺も、同時に膨らみが感じとれているはずです。



いま、あなたの身体に何が起こったのでしょうか?

驚きのなかで、この文章を読まれている方も多いはずです。それをこれから、ご説明します。まずはこのイラストをご覧ください。





このイラストは間違っています。

けれども、つい数分前までの、あなたの肺の大きさと場所のイメージは、こんな感じでした。厳密には個人差があると思いますが、おそらくは大きくは違わないでしょう。また中には、背中側のイメージは正確だったけれども、まさか鎖骨を越えてくるとは思わなかった人もいるでしょう。

そうです。あなたは今まで、肺という臓器の大きさを、小さく小さくイメージしていたのです。あなたには、常識的な知識として、肺という臓器の存在を知っていました。しかし、その身体の中での大きさと場所については、「胴体の上のほうにある」という認識にとどまります。あなたの先ほどまでの認識を整理すると、大よそ、このような計算式になると思います。

「肺という呼吸のための臓器がある」+「それは胴体の上のほうにある」+「呼吸のときに胸が大きく膨らむ」

この計算から導き出された解答が、「肺は胸の前のほうに小さくある」という誤った認識だったのです。肺の大きさと場所を、本当の姿よりも著しく小さくしてしまっていたのです。



今までこの本を読みすすめられてきて、正しい肺の大きさと場所を、ほぼ正確に認識しています。ここで改めて、ご自分の呼吸の様子をみてみてください。

肺の大きさと場所の意識は、おそらく少しは、薄れていたでしょう。一度手に入れた正しい認識は生きつづけます。本人がずっと気にして意識しつづける必要はありません。こんな楽な健康法は、他にないでしょう。

呼吸が深くなると、酸素の摂取量が上がります。酸素の摂取量が上がると、酸欠状態にあった組織、細胞にも酸素が行き届くようになります。これだけで、身体は間違いなく改善します。

あなたはおそらく、この事実を家族や友人に伝えたいと思っているはずです。ぜひ教えてあげてください。ここで得られた情報は、あなたの知人の助けとなるはずです。







出典:小池義孝『ねこ背は治る!』




2016年12月10日土曜日

英語とイタリア語、ドイツ語[奥山清行]






話:奥山清行


ぼくは今までの25年間、人生の半分以上を海外で暮らしてきました。日本を出て、アメリカ、ドイツ、そしてイタリアの3ヶ国に住みながら、クルマのデザインを通してさまざまな経験をすることができたのは、とても幸せなことだと思います。



日本という国は、良くも悪くも重力がとても強いので、なかなか離れることができません。でも、いったんその重力から抜け出すと、まるで水を得た魚のように、いろんな国を渡り歩く自分がいました。かつては奥手で、見知らぬ人と言葉を交わすことさえ嫌だった、このぼくが、です。



ぼくは子供のころから、大のクルマ好きでした。3歳くらいからクルマの絵を描いていましたし、小学生のころはミニカーを集めていました。「この子に鉛筆をもたすと危ない」と言われたほど、紙きれだけでなく、家中のいたる所にクルマの絵を描いていたんです。



もちろんクルマばかりではなく、「サンダーバード」や「ウルトラマン」にも熱中しました。ただ、ほかの子と違っていたのは、テレビを見るとき、必ずそばにスケッチブックと粘土を置いていたことです。そして30分の番組が終わるまでには、怪獣や乗り物のスケッチと粘土の模型ができていました。今から考えると、知らず知らずのうちにカーデザイナーになるためのトレーニングをしていたようなものです。たとえばアニメの乗り物を粘土でつくっている時などは、「あ、三次元のモデルでは成立しない線があるな。ここは直してあげなきゃ」と思ったりしていました。



高校を卒業し、美術大学にはいってわかったのは、グラフィックデザインを学んだ優秀な学生は、卒業すると電通や博報堂に入社するということでした。世間ではそういう進路が正しいと考えていたようですが、ぼくは何かが違うと感じて、大学を卒業しても就職せずにアメリカに渡りました。海外で一からデザインを学び直そうと思ったのです。



アメリカの大学を出て、最初に就職したのはGM(ゼネラルモーターズ)でした。次にドイツのポルシェで働き、ふたたびGMに戻って管理職をやりました。それからイタリアのピニンファリーナでデザイナーに就任し、アメリカの大学でデザインを教える仕事についた後、またピニンファリーナで今度はデザイン・ディレクター。そのピニンファリーナを2006年に退職して独立。これがぼくの今までの職歴です。



仕事をするという面から日本の社会と白人社会を比べると、草食動物と肉食動物くらい違います。ぼくは仕事をはじめて25年くらい経ちますが、その間ずっと肉食動物の中で生活してきたことになります。しかも最後のピニンファリーナでは、デザイン・ディレクターという管理職でしたから、草食動物が肉食動物たちの中で、アメとムチを使い分けながら仕事をしてきたようなものです。もちろん、ちょっと気を許すとすぐに猛獣に噛まれてしまいます。背中を向けるとすぐ飛びかかってくる連中ですから、よく噛まれます。イタリアに住むようになってもう10年以上たちますが、毎朝仕事に出かける時には、クルマの中でロック音楽をかけるのがぼくの習慣です。勢いをつけて、肉食獣たちに負けないようにするためです。



月に一回くらいのペースで日本に帰るチャンスがありますが、成田に帰り着くと自分でも顔つきが緩んでくるのがわかります。何年海外で暮らしていても、外国にいる時には目尻がつり上がり、日本に帰ってくると目尻が下がるものです。草食動物の中に戻ってきたので、噛みつかれる心配がなくなるからでしょう。緊張感も緩むらしく、日本に帰るとだいたい2kgくらい太ってしまいます。イタリアに戻ると「お前、何してきた?」と言われるくらいです。



ふだん日本語だけで仕事をしている人にはなかなか気づくチャンスのないことだと思いますが、人間は話している言語によって考え方が変わります。

ぼくはこれまで、日本語のほかに英語やドイツ語、イタリア語で仕事をしてきましたが、それぞれの言語を話すとき、まったく違う自分になっていることに気がつきました。日本語で話しているときの自分と、英語を話している自分、ドイツ語を話している自分、そしてイタリア語を話している自分では、考え方や性格が明らかに違います。

たとえば英語の場合はとても言葉の数が多いので、それをできるだけ速く話す必要があります。それに伴って口の動きも速くなるので、頭に加わる刺激が日本語よりもスピーディです。使う顔の筋肉も違います。それと反対に、イタリア語はとても少ない言葉で意味が通じます。たとえば「ここにあるはずのものがない」と言うとき、英語では「It's not there」と言いますが、イタリア語では「ノンチェ」で話が通じます。そのように短い、少ない単語で意味が通じる言語なので、わずかな言葉でどんどん話題がすすんでいきます。したがって、頭の回転をよほど速くしないと会話に追いついていけません。そのために、イタリア語で仕事をしていると、どんどん先のことを考えるようになり、それにつれて余計なことを考えなくなります。その結果、自分の考えが特化しやすくなり、短時間で自分の考えを伝えることができるようになります。

ところが日本語というのは、余計な言葉がいっぱいありますから、たいしたことのない内容でも伝えるのに時間がかかってしまいます。それは微妙なニュアンスを伝えるときには便利ですが、重要な項目を次々と処理するようなときには面倒です。そういう違いを別としても、日本語は外国語と比べるとずっと複雑です。これは何種類かの外国語で仕事をしてきた人間が言うのですから、間違いありません。日本語を自由にあやつって仕事をする日本人というのは、すごい能力の持ち主だと思います。



ぼくはイタリアに来る前に、アメリカで3ヶ月学校に通いイタリア語を勉強しました。来てからはごく自然に上達しましたが、それはイタリアの人たちと意思疎通するには、イタリア語を理解するほかなかったという事情もあります。彼らが英語を話せないからこそ、ぼくのイタリア語がうまくなったというわけです。外国語の上達には、とにかくどんどん話すことが早道ですから。

ドイツはまったく事情が違っていて、ほとんどの人が上手な英語を話しますから、こちらのドイツ語はなかなか上達しません。よほど気の長い人でなければ、ぼくがたどたどしいドイツ語で話すのを待ってくれず、さっさと英語で話しかけてきます。ドイツ語の会議でも、ぼくが発言しようとすると、急に全体が英語に変わったりするくらいです。ドイツ人は日本人とよく似ていて、中途半端な母国語を話されるのを嫌がります。だからぼくが間違った言い方をすると、その場できっぱりと言い直されてしまいます。そうするとこちらは萎縮しますから、ますます上達が遅くなります。

その点、イタリア人は言い間違いをすごく自然に直してくれます。それもイタリア語を早く覚えられた理由でしょうね。







出典:奥山清行『フェラーリと鉄瓶』




2016年12月9日金曜日

ブルーエコノミー[Gunter Pauli]






『English Journal』2016年1月号より〜


EJ:ここ数年、あなたのお仕事の中心になっているのは「ブルーエコノミー」の概念です。
The main thrust of your work in recent years is the concept of the "blue economy."

ブルーエコノミーとは、何でしょうか?
What is the bluer economy,

そして、この、サステナビリティ(持続可能性)を高めるための解決策に至るのに、個人的にもお仕事の上でも、どういった段階を経る必要があったのでしょうか。
and what steps have you had to take both personally and professionally to arrive at this solution for moving toward greater sustainability?



Dr. Gunter Pauli

まず言っておきたいのは、ブルーエコノミーは、数ある解決策のうちの一つにすぎない、ということです。
First of all, the blue economy is just one of the solutions.

私たちが直面しているすべて(の問題)を解決できる唯一の策がある、というふりなどできません。
We can never pretend that we have the solution for everything that we're facing.

あるものを活用する。
You use what you have.

価値を見いだすことに注力する。
You focus on generating value.

すでに持っているものから多くの価値を生み出せるので、たくさんの雇用を創出することが可能です。
You increase so much value with what you have that you can generate a multiple of jobs;

(人々の)購買力を高め、地域経済で貨幣を循環させることができます。
you will improve purchasing power and you circulate the money in the local economy --

早ければ早いほどいい。
the faster the better.

それがブルーエコノミーです。
That's blue economy.



私たちには、そういった方向転換を可能にする方法論が幾つかあります。
But we have a few methodologies that allow us to see the turnaround.

例を挙げると、何かを別の何かで置き換えるのではありません。
For example, we don't substitute something with something else;

あるものを何もない状態にするのです。
we substitute something with nothing.

つまり、より高効率な電池(の開発)への投資を始めるのではなく、「電池なし」と主張するわけです。
So, instead of saying we're going to start funding batteries that are more efficient, we're saying, "No batteries."

リバウンドがあるのを知っているので。
Because we know the rebound effect.



つまり、こういう事態はすでに報道されていますが、
Well, I mean we've, this all been documented --

より効率的な電池がいったん誕生すると、誰もがリチウムを採掘したがるようになります。
once we have more efficient batteries, now everyone will want to mine the lithium,

そしてリチウムは、世界最大の産出地であるボリビアの高地で採掘されます。
and the lithium is gonna come from the high mountains of Bolivia, which have the largest deposits in the world.

(地域の)生態系を破壊するのは、いったい何をするためでしょう?
We're gonna destroy that ecosystem in order to do what?

より効率的な電池を手に入れるため?
To have a battery that is more efficient?

悪影響が以前より小さくても、悪いことに変わりありません。
I mean, doing less bad is bad.



それがわかってきたので、悪いものは完全に排除すべきだ、と言わざるを得ません。
That's what we've learned, and therefore, we have to say that what is bad needs to be eliminated

人間の知性と創造力があれば、そして自然から学ぼうという意識があれば、そうする方法は見つかるはずです。
and we -- with our human intelligence and creativity -- if we're prepared to be inspired by nature, we will find ways to do it.

私たちは、最も創造的な考え方をしなければなりません。
We have to put ourselves in the most creative mind --

「無」という考え方です。
that is "the nothingness."

何もない。
There's nothing.

何もない世界にいても、うまくいっている様子を想像してください。
And now we're in this nothing, imagine how it still works.



無の意識を身につけ、あるものを無に置き換えたら、
And if you have the nothingness, the substitution of something with nothing,

代替効果のわなにはまることも、望まない結果になることもないでしょう。
then you will not go through the trap of the substitution effect and have undesired consequences.

私たちはブルーエコノミーを通じて、豊かさの感覚を生み出したいのです。
In the blue economy, we wanna create a scene of abundance.







倫理の欠如
Without Ethics


EJ:ブルーエコノミーのもう一つの側面として、サステナビリティに向けて、新しく、より厳しい基準を設定する、というものがあります。
The other aspect of the blue economy is to set new and higher standards toward sustainability.

あなたは1992年に、リオ(デジャネイロ)で開催された、国連で初めてのサステナビリティに関する会議に参加されました。
And back in 1992, you were there at the first U.N. conference on sustainability in Rio.

これらの原則(アジェンダ21)をまずは理解するという点において、私たちはどの辺りまで来たのでしょう?
How far have we come in even understanding what these principles are?

この20年で、アジェンダ21の目標はどこまで達成されたのでしょうか?
How have the goals of Agenda 21 been achieved 20 years later?



Dr. Gunter Pauli


そうですね、アジェンダ21とミレニアム開発目標について言うと、国連は別の目標に移行したがっています。
You know, Agenda 21 and the Millennium Development Goals, they now wanna transform into other goals.

今日の世界は、そうやって自分をごまかしているのです。
So, this is how our world, uh, fools oneself.

すでに目標があったのに、新しい目標をつくろうとしているのですから。
I mean, we had goals, and now we're gonna create new goals.

私としては、もっと深く追求しなければならないと思っています。
To me, we have to go much deeper.



(目標の)倫理性について、もっとよく考えなければなりません。
We have to be more aware about the ethics.

数値で示された目標ではなく、倫理的な指針に従うべきなのです。
We have to be guided by ethical principles, not by goals set in numbers.

私たちに欠けているのは、倫理です。
And the ethics is what we're missing.

自分たちが根本的に、そうと意識せず、いかに非倫理的な行動をしているかに気づくと…、
And when we realize how unethical we fundamentally behave without realizing it, you know...

それが人類の改革運動なのです。
and that's the crusade of humankind --

自分たちがどのような行動をしているか、理解しはじめなければいけない、ということです。
is that we have to start understanding how are we behaving.



何しろ私たち人間は、陶磁器店に迷い込んだ象のようなもの。
Because we are elephants in the porcelain shop.

しっぽを振り回しては、自分たちがどれほど多くを破壊しているかも知らないのです。
Our tail waggles and we have no idea haw much we're destroying.



私たちが現在進めているプロジェクトの中から、とても具体的な例、至急、新たな倫理が必要だと思われる例を挙げてみましょう。
I mean, to give you a very concrete example of one of the projects we're working on and where we believe new ethics is urgently needed.

例えば、私がこんな話をしたとします。
When I were to tell you that 

2週間後に出産予定の雌牛を飼っている農民がいます。
there is a farmer who has a cow that will calve in a couple weeks,

その農民は雌牛を精肉所に連れていき、解体処理をさせました。
and the farmer brings the cow to the butcher and slaughters,

おなかの中の子牛もろとも、雌牛を殺したのです。
killing both the unborn calf and the cow,



(そう聞くと)私たちは、その農民を残酷な人だと思うでしょう。
we would consider that person a horrible person.

その行為は、まったく理にかなっていません。
No logic to it whatsoever,

なぜなら、私たちは生命を賛美し、食糧やミルク、それらを手に入れる機会も、たたえているからです。
because we celebrate life, and the food and the milk, and we celebrate the opportunity.

まず子牛を生かそうともしないなんて残酷なことが、どうしてできるのか、理解できないでしょう。
We don't understand why someone could be so barbarian not to let the calf live first.



かと思えば、私たちは漁に出て、網で大量の魚を捕ります。
And then we go fishing, and then we fish in these nets, 

その中の12〜15%は、卵をはらんだメスです。
uh, tons of fish, including 12-15 percent females with eggs.

でも私たちは、卵のあるメスをさばき、むしろ、卵が食べられることを喜びます。
And when we fillet them, we actually enjoy the fact that we can eat the eggs.



私はそこが理解できません。
I don't get it.

卵をはらんだメスを捕獲し、殺し、楽しみや贅沢のために卵を食べておきながら、サステナブルな漁をし、サステナブルな海にすることが、可能なのでしょうか?
How could we ever have sustainable fishing, sustainable oceans when you are harvesting, killing the females with eggs and eating the eggs as a pleasure, as a luxury?

いったいどうやって?
You know, how could you?

魚であれば普通のことで、動物だと残酷だと思う。
Now, we think it's normal with a fish, ha, but we think it's a barbarian with an animal.

私たちはいったい、どうなってしまっているのでしょう?
What's wrong with us?







人間は、自分たちの行動にまったく倫理が欠如していることに気づくべきです。
But we have to realize the way we're behaving lacks all ethics.

私たちはそのことを理解していません。
And we don't realize it.

みんな、比類なく巨大な自尊心をもった有名人たちの大規模な会議を開くことに意識を集中しすぎています、倫理を無視して、立派なミレニアム開発目標を立て、その後、別の目標を立てるために。
We are too much focused on having massive deliberations with famous people who have the greatest egos in the world to have the wonderful Millennium Development Goals, and then the next set of goals, without ethics.



どうして私たちには「完全雇用のみ」と主張できる倫理がないのでしょう?
How come we don't have the ethics that says there is full employment only?

どうして、そんなことは不可能だ、と主張する経済学者についていくのでしょう?
How come we let ourselves be guided by economists who say that's not possible?

そんな経済学者は、部屋から追い出してください。
Put the economist out of the room.

自然界では、誰にも仕事があり、仕事のない人などいません。
In nature, everyone is employed, no one is unemployed;

誰もが、それぞれの能力を最大限に発揮しながら貢献しています。
everyone contributes to the best of their capabilities.

そうすることで、社会に回復力が加わるのです。
And that gives a resilience in the system.



生命の網
The Web of Life


さて、優秀な人、特に優秀な人と一緒に働きたいとなると、排除される人が出てきます。
Now, if you wanna work with the able, the very able, now, that means you're going to create exclusion.

私たちの経済システムは、排除の上に成り立っています。
And we have an economic system that is built on exclusion.

では、シングルマザーや孤児だけを含めればいいのか?
And are we then only going to include the single mothers and the orphans?

いいえ、社会のすべての人を含めるのです。
No, we're gonna include everyone in society.



市場に柔軟性を持たせるために失業が必要だ、という経済論理がありますが、
So, by having this economic logic that unemployment is a need for having flexibility in the market...

社会の回復力という点ではどうでしょう?
well, what about resilience of society?

鍵となるのは、柔軟性でしょうか、それとも回復力でしょうか?
I mean, is flexibility the key or is resilience the key?



一人の人間として申し上げたいのは、私は回復力に目を向けたい、ということです。
And I would like to submit that as a human being, I like to see resilience.

皆さんもご存じのように、最悪の事態というのは起こるものです。
Because we know that the worst will hit,

津波も来れば、
we know the tsunami will come,

すぐそこに台風も来ている。
we know the typhoon is around the corner,

となると、何が必要でしょうか?
so what do you need?

柔軟性?
Flexibility?

いいえ、回復力です。
No, you need resilience.



私たちには、立ち直ることのできる力が必要なのです。
You need to be able to bounce back,

一人ではどうにもできませんが、あなたにはネットワークが、生命の網があります。
and that you can't do on your own, and that means you have your network, your web of life.







私が注力しているのは、物事のやり方を変えることです。
My focus is on changing the rules of the game.

と言っても、学校で説明したり、まったく同じルールを採用するよう頼んだりするわけではありません。
And not by explaining them to everyone through schools and as everyone to adopt exactly the same rules,

なぜなら、そうしたルールは進化し、変化し、適合していくものだからです。
because those rules will evolve and change and adopt.

私はそれを、教義や法律にする気はありません。
I don't wanna put 'em into dogma or laws.

グローバル化経済のルールをつかわなくても、貧困問題への対処はできる、そうわかっているということを、はっきりさせたいだけなのです。
I just want to make certain that we know that we can respond to poverty not using the rules of the globalized economy.



現状に目を向けると、グローバル化経済はすでに貧しい人を排除しています。
And I look at the situation and say the globalized economy already made an exclusion of the poor 

貧しい人の元に(恩恵が)及んでいないからです。
because they don't reach the poor.

貧しい人はグローバル経済から排除されている。
So, poor people are excluded from the global economy,

ならば私に、排除された人たちを含めた経済を示す言葉をつくらせてください。
so let me create the terms of the economy with those who've been excluded.



なぜなら、私たちが忘れてしまうのは、大切なのは競争力ではなく、今あるもので人々のニーズに応えることだからです。
Because what we forget is that it is not about the competitiveness, it's about the response to the needs of the people with what they have,

これは第一段階でしかありません。
and that is only Step 1.

第二段階は、貨幣は地域経済の中で循環させる必要がある、ということです。
Step 2 is that money needs to circulate in the local economy.

そうして生命の網をあらためてつくるのです。
And this is where we recreate the web of life.

一方でわれわれは、価値をあらためて作り出しているわけです。
But we recreate the value.



生命の網には、生命を維持したいという欲求があります。
The web of life has a desire to sustain life.

生命の網とは、生命を賛美すること。
The web of life is to celebrate life.

栄養、エネルギー、物質を循環させれば、生命をたたえることができます。
And you celebrate life by cycling the nutrients, the energy, the matter.

ただし、価値をどんどん与え続けることで循環させていくのです。
But you cycle it always by giving more and more value.








Interviewed by Kathy Arlyn Sokol
訳:中村有以






社会活動家
グンター・パウリ
Gunter Pauli

1956年、ベルギー生まれ。「ゼロエミッション」構想と「ブルーエコノミー」の概念を提唱。循環型社会の実現を目指し、世界各地でさまざまなプロジェクトに従事している。1994年から97年まで国連大学(東京)の学長顧問を務め、94年の世界経済フォーラムでは「次世代のリーダー」の一人に選出された。







グンター・パウリ氏をひと言で称すると、「稀代のコンセプトメーカーにしてその伝道者」である。世界中を飛び回る氏の活動と、本インタビュー中に登場する幾つかのキーワードに、持続可能な未来へのヒントが見いだせるのではないだろうか。

まず筆頭に挙げられる考え方が「ゼロエミッション」である。電気自動車や燃料電池車の登場により、今ではすっかり認知された感のある言葉だが、さかのぼること1994年、当時、国連大学の顧問であった同氏が提唱したコンセプトである。

「ゼロエミッション」とは、複数の産業が連環を構築し、廃棄物を資源として再利用することで、最終的な廃棄物をゼロにすることを目指すもの。以前、北九州エコタウンを筆者が案内した際に、まさしくゼロエミッション構想を具現化した事例として、氏が感激していたことが思い出される。



次に「自然や生物から学ぶ」ということ。

そもそも産業の生態系を構築するゼロエミッションという着想は、自然の生態系においては、全体として廃棄物が出ないことへの気づきから生まれた、と聞く。

色素をつかわずに蝶の羽の構造をまねて発色させたドレス。ヤモリの足の構造をまねた接着テープなど、生物の機能や構造からヒントを得た製品を開発する生物模倣技術の発展にも、Nature's 100 Best という共著書で、世界を変革する可能性を秘めたそれらの事例をいち早く紹介した、氏の慧眼が寄与している(脇坂港)。







2016年12月1日木曜日

Don't think! Feeeel![Bruce Lee]





Don't think! Feeeel!

“Don’t think. feel! It’s like a finger pointing away to the moon. Don’t concentrate on the finger, or you will miss all the heavenly glory.”

“考えるな!感じろ!それは月を指差すようなものだ。指を見てちゃ栄光はつかめないぞ!”







2016年11月23日水曜日

斎藤茂吉『念珠集』青根温泉


斎藤茂吉
念珠集






 8 青根温泉

 父は五つになる僕を背負ひ、母は入用いりようの荷物を負うて、青根あをね温泉に湯治たうぢに行つたことがある。青根温泉は蔵王山を越えて行くことも出来るが、そのふもとを縫うて迂回うくわいして行くことも出来る。

 父の日記を繰つて見ると、明治十九年のくだりに、

『八月七日。雨降。熊次郎、おいく、茂吉、青根入湯にゆく。八月十三日、大雨降り大川の橋ながれ。八月十四日。天気よし。熊次郎、おいく、茂吉三人青根入湯がへり。八月廿三日。天気吉。伝右衛門でんゑもん、おひで、広吉、赤湯あかゆ入湯に行。九月ついたち。伝右衛門、おひで、広吉、赤湯入湯かへる』。

ここでは、父母が僕を連れて青根温泉に行つたことを記し、ついで、祖父母が僕の長兄を連れて、赤湯温泉に行つたことを記してゐる。父の日記はおほむね農業日記であるが、かういふ事も漏らさず、極く簡単に記してある。青根温泉に行つたときのことを僕は極めてかすかにおぼえてゐる。父を追慕してゐると、おのづとその幽微になつた記憶が浮いてくるのである。

 父は小田原提灯ちやうちんか何かをつけて先へ立つて行くし、母はその後からついて行くのである。山の麓の道には高低いろいろの石が地面から露出してゐる。石道であるから、提灯の光が揺いで行くたびにその石の影がひよいひよいと動く。その石の影は一つ二つではなく沢山にある。僕が父の背なかでそれを非常に不思議に思つたことをおぼえてゐる。

 まだ夜中にもならぬうちに家を出て夜通よどほし歩いた。あけがたに強雨がううが降つて合羽かつぱまで透した。道は山中に入つて、小川は水嵩みづかさが増し、濁つた水がいきほひづいて流れてゐる。川幅が大きくなつて橋はもう流されてゐる。山中のこの激流を父は一度難儀してわたつた。それからもどつてこんどは母の手をかへて二人して用心しながら渡つたところを僕はおぼえてゐる。それから宿へ著くとそこの庭に四角な箱のやうなものが地にいけてある。清い水がそこに不断にながれおちてうなぎが一ぱいおよいでゐる。そんなに沢山に鰻のゐるところは今まで見たことはなかつた。

 帳場のやうなところにゐる女は、いつも愛想よく莞爾にこにこしてゐるが、母などよりもいい著物きものを著てゐる。僕が恐る恐るその女のところに寄つて行くと女は僕に菓子を呉れたりする。母は家に居るときには終日せはしく働くのにその女は決して働かない。それが童子の僕には不思議のやうに思はれたことをおぼえてゐる。

 僕は入湯してゐても毎晩夜尿ねねうをした。それは父にも母にも、もはや当りまへの事のやうに思はれたのであつたけれども、布団のことを気にかけずには居られなかつた。雨の降る日にはそつとして置いたが、天気になると直ぐ父は屋根のうへに布団を干した。器械体操をするやうな恰好かつかうをして父が布団を屋根のうへに運んだのを僕はおぼえてゐる。

 或る日に、多分雨の降つてゐた日ででもあつたか、湯治客たうぢきやくがみんなして芝居の真似まねをした。何でも僕らは土戸つちどのところで見物してゐたとおもふから、舞台は倉座敷であつたらしい。仙台から湯治に来てゐるおうななども交つて芝居をした。その時父はひよつとこになつた。それから、そのひよつとこめんをはづして、囃子手はやしてのところで笛を吹いてゐたことをおぼえてゐる。

 父の日記にると、青根温泉に七日ゐたわけである。それから、

『明治二十丁亥ひのとゐ年六月二日。晴天。夜おいく安産』。

と父の日記にあつて、僕の弟が生れてゐるから、青根温泉湯治中に母は懐妊くわいにんしたのではないかと僕は今おもふのである。



出典:青空文庫
斎藤茂吉 念珠集




2016年11月20日日曜日

People get ready [Jeff Beck]





with Rod Stewart





with Sting





with Joss Stone





Aretha Franklin





Curtis Mayfield & The Impressions



People Get Ready

People get ready
There's a train a-coming
You don't need no baggage
You just get on board
All you need is faith
To hear the diesels humming
Don't need no ticket
You just thank the Lord

People get ready
For the train to Jordan
Picking up passengers
From coast to coast
Faith is the key
Open the doors and board them
There's room for all
Among the loved the most

There ain't no room
For the hopeless sinner
Who would hurt all mankind just
To save his own
Have pity on those
Whose chances are thinner
Cause there's no hiding place
From the Kingdom's Throne

So people get ready
For the train a-comin'
You don't need no baggage
You just get on board
All you need is faith
To hear the diesels humming
Don't need no ticket
You just thank, you just thank the Lord

Yeah
Oh
Yeah
Oh

I'm getting ready
I'm getting ready
This time I'm ready
This time I'm ready


Written by Curtis Mayfield







2016年11月19日土曜日

遅い、が早い[ハングル]



늦었다고 생각할 때가 
가장 빠른 것이다

遅いと思った時が
いちばん早い時だ。


日本語の似た表現としては

「思い立ったが吉日」





出典:テレビでハングル語




2016年11月15日火曜日

タバコを吸うトラ[韓国]


虎がタバコを吸っていたころ…

호랑이 담배 피우던 시절
ホランイ タムベ ピウドン ジジョル


これは韓国での決まり文句である。

その意味は…





「トラが煙草を吸っていたころ」というのは、韓国の昔話の出だしの枕詞だ。日本なら「むかしむかしあるところに...」にあたる言葉である。

ちなみに韓国の昔話にはトラがよく登場する。伝説上、韓国人の始祖は壇君(タングン)という人物であるとされるが、その壇君の神話にもトラが登場する。壇君の母親はクマから人になった女性であるが、実は、クマと一緒にトラも人になる試練に挑戦していた。しかし、トラはそれに耐えられず人になれなかったというのだ。

たしかに、現在の韓国にはトラはいない(朝鮮半島の北部には一部いるという)。しかし、過去は韓国にもトラがいた。かつての支配階級だった両班(ヤンバン)が歯ブラシ代わりにしていたという虎のヒゲを見せてもらったことがある。ヒゲ一本で、塗りの箸と同じくらいの長さと太さであった。その根の方を歯にあててこすっていたとのことであった(武井一)。







2016年11月11日金曜日

辞書の最初の意味[MIA MADRE]



L'importante è che tu non traduca i verbi con la prima cosa che trovi sul vocabolario.

大切なのは、言葉を辞書の最初の意味だけで訳さないこと。





映画『MIA MADRE(母よ)』

イタリア映画界の巨匠、ナンニ・モレッティ監督による感動のドラマ。映画監督のマルゲリータは恋人と別れたばかりで、離婚した夫との娘は反抗期の真っ只中。新作映画の撮影も思うように進まない中、彼女は母・アーダの余命がわずかであることを知る(「キネマ旬報社」データベースより)。




隕石の教える「太陽系の歴史」



隕石は、どこから来るのか?






その大部分は、火星と木星のあいだにある「小惑星帯(アステロイドベルト、asteroid belt)」からやって来る。この一帯は小惑星の宝庫であり、軌道がわかっているものだけでも30万個以上の小惑星が確認されている。

そうした小惑星のカケラが、ときに隕石となて地球に飛来するわけだ。その成分を分析してみると「地球にはない物質」が含まれていることがある。







そして不思議なことに、隕石の多くが「46億年前」に形成されていることが判っている。月もまた然り。

「つまり、われわれの太陽系が誕生したのは、その頃(46億年前)なんじゃないかと、隕石が教えてくれているわけです」







1970〜80年代、理論天文学者の林忠四郎氏は、太陽系の形成過程を「京都モデル」として提唱した。

そのシナリオはこうだ。

およそ46億年前、太陽の元となる「原始太陽」が誕生。その周りをガス(水素やヘリウム)や塵(炭素や砂)取り囲み、円盤のような形になる(原始太陽系円盤)。そして、ガスや塵が濃くなった部分から「微惑星」が形成され、衝突や合体をくりかえして、より大きな「原始惑星」へと成長していく。さらに衝突・合体がくりかえされると、はい、地球のできあがり、となる。







国立天文台の小久保英一郎氏は、太陽系が現在の形にまで成長する様子を、スーパーコンピューターを用いて再現してみた。

小久保氏は何十万という塵の粒を、コンピューターにインプット。重力や運動法則にしたがって、それら無数の粒々がどんな動きをしていくのかを、一秒間に1兆回の計算をして観察。

すると、最初は均一に散らばっていた粒々に、すこしずつムラが生じはじめる。そのムラは時間とともにだんだんと大きくなっていき、10万年経ったころには、大きさが数kmの「微惑星」があらわれていた。そして衝突・合体をくりかえしながら直径が1,000kmを超える「原始惑星」が誕生。一億年もすると地球サイズの惑星になっていた。

小久保氏は言う。

「原始惑星が平均10回衝突すると、地球サイズの惑星ができあがります。地球のような惑星ができるのに奇跡は必要ありません。太陽系の外にはすでに、地球と似たような環境にある惑星がたくさん見つかっています」







ところで、われわれの太陽系には、大きくわけて2つのタイプの惑星が存在する。一つは地球をはじめとする小さめの岩石系、そしてもう一つは木星のような巨大なガス惑星。

「どうして、木星や土星はこうもデカいんだと思いますか?」

それは「太陽からの距離」が深く関係しているという。

「太陽から近いところでは、太陽から発せられる凄まじいエネルギーによって、ガスなどの軽い成分が吹き飛ばされてしまいます。その結果、太陽に近い水星・金星・地球・火星には、個体である岩石ばかりが残されました。一方、太陽からより遠い木星・土星には、軽いガス成分が大量に吹き飛ばされてきました。だから、ぶよぶよと巨大化することができたんです」

では、もっと遠くにある天王星や海王星は、なぜ小さいのだろう?

「太陽から遠すぎるからです。星をつくる材料であるガスや塵があまり飛んでこなかったと考えられています」







30年ほど前、ハワイのすばる望遠鏡が「円盤状のガス」を世界ではじめて発見した。

それは「ぎょしゃ座」の星。誕生して100万年ぐらいの若い恒星だった。その周りには、林忠四郎氏の「京都モデル(のちに標準モデルとなる)」そのままに、円盤のようなガスが渦巻いていたのである。

2011年、観測装置の進歩によって、ぎょしゃ座AB星の円盤の一部に「切れ目」があることが確認された。

「ここには、生まれようとしている惑星があるのではないかと考えられています」