2016年1月8日金曜日

原始脳(獣の脳)に誘拐されている人間脳 [スマナサーラ長老]


話:アルボムッレ・スマナサーラ





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普通の人々は原始脳(獣の脳)の司令で生きています。大脳を優先した生き方をしていません。原始脳は、生まれるときには神経細胞の配線がすでに完了しています。原始脳にはこれ以上、発達はありません。

対して大脳は発達しないまま・配線ができていないままの状態で人は生まれます。生まれてから長い時間をかけて大脳を配線するのです。「生涯学習」とは人気のあるフレーズです。勉強には終わりがない、死ぬまでやりなさい、という意味です。このテーマで言い換えれば、死ぬまで大脳の配線をしなくてはいけない、ということです。それでも未完成のままで死んでしまいます。

しかし、大脳の配線は決して終わらない作業ではありません。大脳の神経細胞は約140億個と推定されています。他の神経細胞も足してみると、1,000〜2,000億くらいになるそうです。やり方さえあれば、配線を完了することはできると仮定しておきましょう。



原始脳は獣の脳だとも言います。原始脳に思考能力はありません。外の世界を認識する能力もありません。原始脳にあるのは存在欲と恐怖感です。外の世界・現実を知る能力がないから、仏教的に無知・無明だとしているのです。無知・無明を土台にしているため、存在欲と恐怖感(怒り)が起こるのです。それは有名な貪瞋痴(とんじんち)です。

原始脳は生まれるとき、配線は完了しています。よくはたらきます。この獣の脳が発信する信号で、大脳がはたらきます。生きていきたいという存在欲の信号を出すのです。大脳が必死になって、生き延びるためにがんばるのです。そして、人間がおこなう勉強・研究などなど、すべての作業が、生き延びるという目的のためになされます。

それから原始脳は恐怖の信号を出します。大脳は必死になって、存在に邪魔なものを避ける技を身につけます。細菌の退治の仕方だけではなく、同じ人間をライバルとみなして人を殺す道具まで開発するのです。こうして原子爆弾も現れます。科学の進歩も大量破壊兵器の開発も、大脳がやっています。文化・文明も同じことです。生き延びることと敵を倒すことがメインテーマなのです。



要するに、大脳が原始脳に誘拐されているのです。大脳は誘拐犯の言うがままに行動しているのです。それで大脳の配線が現れますが、ろくな結果にはなりません。人間は獣のままです。貪瞋痴に支配されて生きています。存在欲とは、かなわない希望です。したがって、恐怖感(怒り)も消えません。いくら配線しても、問題はそのままです。生涯学習しても同じことです。

この状況は大脳にとって耐えがたいストレスです。死にたくないという気持ちはあっても、人は死ぬのだと大脳の方では知っています。しかし認めたくはありません。そこで誘拐犯にいくらか落ち着いてもらうために、大脳はイカサマを仕掛けます。「私が死んでも、私の魂は死にません」「死後、我々を永遠の天国に連れていく絶対的な神様がいます」などなどの妄想をつくります。

これで原始脳が落ち着きます。自分で自分を洗脳するのです。証拠は一かけらもないのに、魂の存在を信じる。絶対的神様、阿弥陀様、観音様などを信じる。信じる者は救われる、とも言います。実際は信じる者が救われるのではなく、信仰という麻薬で脳が機能低下するだけです。現実が分からなくなるだけです。



お釈迦様は脳の開発方法を見つけられました。正しい配線方法を見つけたのです。目的は、理性のある、世界を知る能力のある、判断能力のある大脳を誘拐犯(原始脳)から解放することです。そのための方法を見つけたのです。

お釈迦様が説かれる道は、大脳にたくさん仕事を与えることです。その仕事は一つも、原始脳の司令とは合いません。人が一度もやったことのない仕事です。それは気づき(sati)の実践です。慣れた仕事をするより、慣れていない仕事をする方がたくさん仕事をしなくてはいけません。じりじりと原始脳と関係のない配線が現れてきます。それは智慧が現れることであり、ものごとをありのままに観察できるようになったことであり、感情に支配されないようになったことであって、自分でもそれがよく分かります。

惛沈(こんちん)睡眠という煩悩があります。脳の成長を妨げる蓋(ふた)だとも言われています。しかし常識的に見れば、健康に生き延びるためには睡眠が必要だとされます。しかし残念です。身体の細胞は寝ません。寝ることも存在欲の一つの姿です。瞑想が進むと、惛沈睡眠が消えてしまいます。それは大脳が新しい配線を作ったということです。






お釈迦様のプログラムは必要な配線がかならず現れるようになっています。悟りに必要な能力は三十七菩提分法であると説かれています。それは脳の正しい配線の仕方を示す話です。修行者は必死に修行しているのです。大脳もどんどん配線をしています。

このように考えてみましょう。神経細胞がICだとします。ICがたくさんあっても、何の仕事もしません。正しく配線すると、ICは仕事をします。私たちが日常使っているパソコンなどは、ICの塊です。しかしびっしり配線されています。だから正しくはたらくのです。神経細胞の場合は、細胞から配線が出ています。それを適当に繋げてみるのです。しかし長い配線もあって、短い配線もあります。このアンバランスの状態でヴィパッサナー(観察瞑想)の汚れが現れるというわけです。一つも悪いものではないのです。がんばって作った配線です。しかし「配線ができた」と満足するのは危険です。

原始脳を抑えてはいますが、原始脳を制御してはいません。そこで大脳の配線は長すぎるものをカットしたり、短いものを延ばしてみたりして、原始脳に繋げなくてはいけないのです。原始脳に繋げたら、大脳が原始脳を管理することになるのです。神経回路は使わないとなくなります。そのうち原始脳の司令を受けていた神経回路が壊れてしまいます。獣の支配は終わります。それで貪瞋痴(とんじんち)が消えます。原始脳は大人しく、生命の基本的なはたらきを監督するようになります。例えば思考・判断能力の要らない消化システム、呼吸機能、心臓の動き、などなどです。



理性に基づいて貪瞋痴のはたらきを一時的に抑えて、計画的に大脳をはたらかせたのです。それによって、今までと違った新たな神経回路システムが現れました。それから、その神経回路を原始脳にも繋げて、配線完了しなくてはなりません。それは新たに作った神経回路を適当に切ったり張ったりして、調整しなくてはいけません。

ヴィパッサナー(観察瞑想)の障碍とは、そのとき起こる現象です。じつは障碍ではないのです。心が苦労して育てた能力です。しかし「それだけでは充分ではない」と大脳が発見します。それが障碍を乗り越えたことです。このプロセスさえも、もう一つの神経回路が生まれることなのです。

この状態は、仏教心理学で道非道智見清浄に達したことであると説かれています。仏教は心の科学であって脳科学ではないので、そのような説明になります。ここでは無理をして、現代の脳科学の知識の一部を使って説明してみました。






引用:ブッダの実践心理学―アビダンマ講義シリーズ〈第8巻〉瞑想と悟りの分析2(ヴィパッサナー瞑想編)




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