2018年4月27日金曜日

「希望が人を苦しめるのです」【スマナサーラ】


From:
Samga Japan Vol.29





苦しみは希望がつくる
アルボムッレ・スマナサーラ




私のメガネはよく見えなくて、階段でも平らに見えるほどです。

ですから、大事なのはただ、一歩一歩どう進むか、です。気をつけて一歩一歩、進む。その結果として、ぶつからないで、ケガもしないで、部屋に帰れます。



われわれの頭の中に希望は無限にあります。

希望、希望、希望ばかりです。完全に病気なのですが、しかし、希望が一兆個ぐらいあっても、実際、われわれは自動的に何かを選んで動いています。

たとえば、億万長者になる希望があり、そして今、おなかが空いているとします。希望は2つですね。「ご飯を食べなくちゃ」と「億万長者にならなくちゃ」、どちらを実行に移しますか?



われわれの仕事は「今、どうすればいいか」だけなのです。

「いいえ、おなかが空いたけれど、億万長者になる希望もありますからね、それを先にやって、それからご飯を食べます」といったような生き方をするな、とお釈迦様はおっしゃっています。



自分の希望を、ちょっといろいろ考えてみてください。自由に妄想できるので、放っておくと実にさまざまな希望が出てくることでしょう。

でも、仮に一兆個ぐらい希望があっても、短い人生で全部叶うわけがありません。結局ただの妄想で終わったりします。



表面上、ちゃんと生きているように見える人でも、余計な希望が頭に入ってしまって、あれもやらなくては、これもやらなくては、とグルグル頭でかき混ぜたりしていると、やっぱり悩みが生まれてきます。

今、やるべきことに集中しないで「本当はこもしたい」「ああだったらいいなあ」などと妄想概念でいっぱいになります。







希望というのは、何か用事があって窓口に並んでいる人々だと考えるようにしてください。希望たちがきちんと列をつくって行儀よく待っています。

たとえその窓口に一億人が並んで順番を待っていたとしても関係ありません。窓口の担当として、希望を一つずつ一つずつ、解決していくだけ。そこで自分の時間が切れたら死ぬだけです。

自分が死ぬときに、まだ無限の希望たちが並んでいても、何の意味もありません。希望たちは「私の希望」です。「私」がいなくなったら希望たちも自動的になくなります。



「苦」というのは、実現しない・できない、無数・無限の希望の堆積物です。

希望は人を苦しめるのです。希望はすべて叶ってほしいものでしょう? ですから、どの希望が一番いいということはありません。そのとき、なんとなくある一つの希望にこだわってしまったりするだけ。どの希望であっても、引っかかってしまうと苦しくなるのです。



人間はまず、限りのない希望をつくるという、間違った生き方をしています。

希望というのは、叶えるための時間を要します。そして、私たちの時間には「寿命」という限りがあります。延ばすこともリセットすることもできません。寿命はどんどん減っていって、いつか死んでしまうのですね。

だから無数の希望があったら、その無数の希望が叶うためには一億年かかるかもしれません。でも自分に与えられた時間は、たった60~70年程度。80歳になってくると希望を叶えるどころか、なにもできなくなってきます。



人間は自己観察しないまま、希望だけをとことん増やし続けてしまいます。

その分いつでも、現実離れに次ぐ現実離れです。現実離れというのは、要するに今を生きていないという状態です。すると、その人は何をやっても失敗します。何ひとつも、成功することができなくなるのです。

希望ばかり追っていて、今を生きていないからです。たくさんの希望はいわば妄想の山です。



あなたに何か希望がありますか?

もしその答えが「あります」なら、あなたは苦しんでいるということになります。そして、「いいえ、一切希望なんかありません」と答える人は、覚っています。

希望は妄想概念だから、人を苦しませるしかないのです。



「ご飯を食べたい」というような、具体的な希望なら問題ありません。

精神的な病気につながってしまう希望とは、合理的でなく、具体的なものでない希望です。たとえば「みんなに好かれたい」「みんな私のことを認めてほしい」という希望をつくったりすると、病気になります。



「ドゥッカ(苦)とは何ぞや」と言えば、いたって簡単な答えになります。

苦しみとは、人の心にある希望の量なのです。







合理性や理性がない世間の人間は、好き勝手に妄想工場で希望をつくってしまいます。

希望が増えれば増えるほど、苦しみが増えます。うまくいかないという落ち込みが増えます。手も足も出ないという苦しい状態が増えます。いてもたってもいられない状態をつくります。

本当は、いたって簡単に生きられるのに。空気のように生きられるのに。



生きることというのは、例えれば、枝にある葉っぱがいつか落ちる、そのような簡単なものなのです。風にそよぎ、いつか枝から抜けて、ゆらゆらと待って地面などに落ちる。

そこに何の心配や不安があるでしょうか?



生きるということは、葉っぱが枝から落ちるように簡単なのです。仏教は、そういうところに達してください、頭の病気を治してください、と言います。

世間に生きる人々は、希望があればあるほど、心配になったり不安になったり、苦しんでしまうので、仏教では「希望がドゥッカ(苦)だ」と言うのです。



覚りに達した人は、どうしても生きているので、その日その日にやるべきことをしっかりやっているだけで、希望はゼロ。

つまり、希望が消えたら覚っている。希望があるならば、まだ覚っていない、苦しんでいる、ということです。




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Samga Japan Vol.29



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