2018年4月27日金曜日

争いは知性が生み出す【Samga Japan】


From:
サンガジャパンVol.29
苦しみを癒やす「愛」の育み方
対談 小池龍之介 前野隆司




争いは知性が生み出す


――争いは苦であり、決して幸せではないはずです。しかし、個人同士の争いから始まり、大きなスケールで見れば戦争のような国家間の争いまで、この世にはさまざまなかたちの争いがあり、絶えることがありません。

なぜ人はこうも争うのでしょうか?


小池龍之介 根本にあるのは、「誰かが何かを余分に欲しい」と思うことでしょう。欠乏しているものをあの人から取りたいとか、あの国・集団から取りたいと思うこと。あるいは余分に与えられていないものを、無理やりもぎ取ろうとすることに、争いは端を発しているような気がします。

余分に欲しいと思うようなものは、実際にある物質に限りません。身近な例でいえば、奥さんが旦那さんに「これやって、あれやって」と、自分ではあまり動かないで、旦那さんにより多くのことをやらせようとするような場合があると思います。日本の伝統的な状況では男女逆かもしれませんが、いずれにせよ「より多くの労力を相手から得たい」とどちらかが思えば、相手は「自分のほうがたくさん奪われそうで怖い」と感じ、そこに争いが生まれます。

また、勝者だと見せつけたい気持ちと、防衛したい気持ちもあります。それが交差することで、家庭でも公共の場でも、あるいは国家間でも争いが起きるのだと思います。





前野隆司 「ライオンと戦ったらなら勝ちたい」「自分が殺されて死ぬのは嫌だ」「安全が欲しい」というのは本能ですからね。安全のためにはたくさん貯えたほうがより生き延びる確率が増しますから、余分に欲しいと思うのも本能でしょう。

本能というのは、本来、性欲や食欲、身体を維持したいという欲です。動物にもあります。しかし、その本能が現代になって、「あいつより豊かになりたい」という欲に変化したように思います。

ライオンと戦っていた時代には、勝たなければ死ぬから争っていた。けれども、平和な現代社会において、別に「あいつより給料が1.5倍なければ死ぬ」というわけでもないのに、「あいつに勝たなきゃ」と戦うのは愚かだと思いますね。


小池龍之介 性欲に関して言えば、動物は特定の時期が来たら本能で発情して交尾しますが、人間の性欲の中で本能と言えそうな部分はほんの少しで、あとは幻想の部分、知的な活動が非常に多くを占めているように思われます。


前野隆司 本能を延長して、必要以上に得たがっているということですよね。


小池龍之介 その「必要以上に」はおそらく本能ではなく、人間特有の文化的なものではないでしょうか。人間が知能に溺れてしまったせいで、本能だったら満足しそうなところでも満足しないで、欠落を感じてしまう。まだ足りないからあれが欲しいとか、これが欲しいとか、こういう状態になりたいとか、拡大しなければ気が済まないのです。

欲望は、本能をも破壊するような形でうまれているような気がします。





前野隆司 なるほど。そう捉えることもできます。そうすると人間の争いの原因は本能であるとは言えませんね。

人間が文明社会を作ってしまったことも原因の一つでしょう。大昔の人間は、身体も弱く、武器を作って生き延びるだけで精一杯で、富が蓄積するような状態ではありませんでした。それが、農業革命、産業革命を経て富を蓄積できるようになった結果として、人は本能を超えたところまで欲を増大させる楽しみを知ってしまったのだと思います。

私はよく森に入るのですが、寝転がって空を見ると、木の葉同士がちょうどいい具合いに争って、全員が太陽の光を得ていることに気づきます。木の葉っぱは「俺は太陽の光をみんなの100倍得て大きくなってやるぞ」とは思っていません。自分の分があります。猿や犬もそうですよ。自分が生きる分しか貯えません。

しかし、人間は違います。普通に生きるのに必要な分の一万倍稼ぐ人もいる。本当はそんなに必要なわけがないですよね。人間にはそれができてしまう知性があります。知性を得たために人間は今よりも豊かな自分を想像できるようになり、皮肉なことに、とめどない欲望も持てるようになりなった。

争いの原因は知性の暴走ですかね。


小池龍之介 「不相応」が一つのキーワードになりそうですね。与えられた分を守って、その中で成すべきことを完璧に成していたなら、心は平和で追い立てられることもなく、幸せにしていられるでしょう。







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サンガジャパンVol.29
苦しみを癒やす「愛」の育み方
対談 小池龍之介 前野隆司

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