2018年5月18日金曜日

怒る日本人、落ち着くタイ人


From:
サンガジャパンVol.29
長尾俊哉
『タイの普通の暮らしから見えてくる仏教に根ざした社会のあり方』





日常生活における仏教


さて、タイで生活していると、日本よりも格段に仏教を身近に感じるようになります。托鉢僧はバンコクの町中でもよく見かけますし、「本日は入安居のためアルコール販売できません」といった張り紙ひとつにも、仏教がタイの生活に根づいていることが感じられます。

とくに私の場合は公立学校で働いているため、さらに仏教や僧侶を身近に感じる機会にめぐまれました。朝礼では国歌斉唱のあとに毎朝みじかいお経を全校生徒(他宗教の生徒はのぞきます)が唱えますし、月初めには、長めのお経を30分ほどかけて、全校生徒で唱えます。

また、わたしが勤めている学校では、毎週金曜は朝礼前に僧侶が読経と説法をおこない、お布施の時間がもうけられています。そのほかにも、お釈迦さまの前世についての物語を2日かけて僧侶が語る「テートマハーチャート」という行事も毎年ひらかれています。

また、毎日ではないですが、朝礼時に全校生徒が3分ほど瞑想をおこなうこともあるし、遅刻がおおくて出席点があやうい生徒に、放課後に1時間単位で瞑想させることもあります。

このように、幼少期から身近にある仏教が、個々人の行動様式に一定の機能をはたしていることは十分考えられると思います。


怒りの対処の違い


たとえば「怒り」の感情に対して、日本人とタイ人ではその取り扱いかたがずいぶん違います。

日本ではとちらかというと、怒りに対して肯定的ではないものの、「怒らせる原因をつくった相手」のほうが悪く、TV番組などを見ていてもわかるように、「その怒りはごもっとも」といった文脈に帰結される場合も多いように感じます。

しかしタイにおいては、「怒りという感情に飲まれる」ことは、人間的に成熟していない、と一般的には理解されています。

余談ですが以前、こんな話を聞いたことがあります。

ある日系企業において、日本人の上司が何度も同じ失敗を繰り返す部下のタイ人に対して、「なんど教えればわかるんだ」と怒りを露わにしたところ、当のそのタイ人の部下が「まあ落ち着いてください」とお菓子をさしだし、それを見た日本人の通訳が、あわててお菓子をとりあげた、という笑い話のような話なのです。

これは日本人的文脈からいうと、どうしてさらに火に油をそそぐようなことをするのだ、となるわけです。しかし、その部下のタイ人からすれば、そのときになすべき最優先事項は、怒りに飲み込まれ、我を失っている上司に冷静になってもらうことだったのでしょう。

日常的によく耳にするタイ語に「チャイイェン」という言葉があります。「チャイ」が心で「イェン」が冷たいという意味なのですが、これは冷たい心という意味ではなく、心を冷静に保つという意味合いをもちます。

だれかが怒りにかられていると、まず「チャイイェンコーン(まずは冷静になってから)」と言葉がけをし、そこから話をしましょうという姿勢をタイ人はよく見せます。日本人からしてみれば、「怒らせている原因をつくっているのは相手なのに、それに対して怒っている自分が、なぜ責められなきゃならないんだ」と、また怒りにかられてしまうという悪循環におちいるわけですが、「怒り」というのは、ご存知のように仏教的文脈においては、煩悩のひとつとして滅するべきものであり、どんな理由があるにせよ。良きものをなにも生み出さないという共通の考えがタイ人にはあるようです。

怒り狂う上司になんとか冷静になってもらおうと思ってとった、日本人の目からすれば「とんでもない」その部下の行動も、その文脈からみれば理解可能なものだといえるかもしれません。





From:
サンガジャパンVol.29
長尾俊哉
『タイの普通の暮らしから見えてくる仏教に根ざした社会のあり方』

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