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2018年5月18日金曜日

怒る日本人、落ち着くタイ人


From:
サンガジャパンVol.29
長尾俊哉
『タイの普通の暮らしから見えてくる仏教に根ざした社会のあり方』





日常生活における仏教


さて、タイで生活していると、日本よりも格段に仏教を身近に感じるようになります。托鉢僧はバンコクの町中でもよく見かけますし、「本日は入安居のためアルコール販売できません」といった張り紙ひとつにも、仏教がタイの生活に根づいていることが感じられます。

とくに私の場合は公立学校で働いているため、さらに仏教や僧侶を身近に感じる機会にめぐまれました。朝礼では国歌斉唱のあとに毎朝みじかいお経を全校生徒(他宗教の生徒はのぞきます)が唱えますし、月初めには、長めのお経を30分ほどかけて、全校生徒で唱えます。

また、わたしが勤めている学校では、毎週金曜は朝礼前に僧侶が読経と説法をおこない、お布施の時間がもうけられています。そのほかにも、お釈迦さまの前世についての物語を2日かけて僧侶が語る「テートマハーチャート」という行事も毎年ひらかれています。

また、毎日ではないですが、朝礼時に全校生徒が3分ほど瞑想をおこなうこともあるし、遅刻がおおくて出席点があやうい生徒に、放課後に1時間単位で瞑想させることもあります。

このように、幼少期から身近にある仏教が、個々人の行動様式に一定の機能をはたしていることは十分考えられると思います。


怒りの対処の違い


たとえば「怒り」の感情に対して、日本人とタイ人ではその取り扱いかたがずいぶん違います。

日本ではとちらかというと、怒りに対して肯定的ではないものの、「怒らせる原因をつくった相手」のほうが悪く、TV番組などを見ていてもわかるように、「その怒りはごもっとも」といった文脈に帰結される場合も多いように感じます。

しかしタイにおいては、「怒りという感情に飲まれる」ことは、人間的に成熟していない、と一般的には理解されています。

余談ですが以前、こんな話を聞いたことがあります。

ある日系企業において、日本人の上司が何度も同じ失敗を繰り返す部下のタイ人に対して、「なんど教えればわかるんだ」と怒りを露わにしたところ、当のそのタイ人の部下が「まあ落ち着いてください」とお菓子をさしだし、それを見た日本人の通訳が、あわててお菓子をとりあげた、という笑い話のような話なのです。

これは日本人的文脈からいうと、どうしてさらに火に油をそそぐようなことをするのだ、となるわけです。しかし、その部下のタイ人からすれば、そのときになすべき最優先事項は、怒りに飲み込まれ、我を失っている上司に冷静になってもらうことだったのでしょう。

日常的によく耳にするタイ語に「チャイイェン」という言葉があります。「チャイ」が心で「イェン」が冷たいという意味なのですが、これは冷たい心という意味ではなく、心を冷静に保つという意味合いをもちます。

だれかが怒りにかられていると、まず「チャイイェンコーン(まずは冷静になってから)」と言葉がけをし、そこから話をしましょうという姿勢をタイ人はよく見せます。日本人からしてみれば、「怒らせている原因をつくっているのは相手なのに、それに対して怒っている自分が、なぜ責められなきゃならないんだ」と、また怒りにかられてしまうという悪循環におちいるわけですが、「怒り」というのは、ご存知のように仏教的文脈においては、煩悩のひとつとして滅するべきものであり、どんな理由があるにせよ。良きものをなにも生み出さないという共通の考えがタイ人にはあるようです。

怒り狂う上司になんとか冷静になってもらおうと思ってとった、日本人の目からすれば「とんでもない」その部下の行動も、その文脈からみれば理解可能なものだといえるかもしれません。





From:
サンガジャパンVol.29
長尾俊哉
『タイの普通の暮らしから見えてくる仏教に根ざした社会のあり方』

2018年5月9日水曜日

「日曜日に教会に行かないとしたら、どうなるのだろう?」


From:
Samgha JAPAN(サンガジャパン) vol.29

話:バンテ・ボーディダンマ師




家族はカトリックでした。

母はイタリア人、父はイギリス人で、2人は第二次世界大戦中にイタリアで出会い、戦後に私が生まれました。



20歳のある日、朝起きて

「日曜日に教会に行かないとしたら、どうなるのだろう?」

という疑問が、浮かびました。その頃はまだ、日曜日に教会に行かないと、地獄に堕ちることが約束されていました。それも、永遠に!

そこで、なにが起こるか見てみようと思い、その日曜日は教会へ生きませんでしたが、なにも起こりませんでした。

それ以来、教会へは二度と行っていません(笑)。こんな風にして、私とカトリックとの関係が終わったのです。



サミュエル・ベケットは詩人であり、劇作家でもあります。彼の戯曲『ゴドーを待ちながら』を観たのが、人生のターニングポイントになりました。

その作品は「生きていくことの無意味さ」を表現していたのです。




また、アルベール・カミュの『シーシュポスの神話』にあるエッセイは、当時わたしが世界に対して持っていた見方や感じ方に、言葉を与えてくれました。

人生、そして存在の根源にある究極的無意味さ。ですが、その無意味ささえ私には、なにか意味のあるもののように思えたのです。




しかし、30歳のときに私の人生は崩壊しました。

妻がわたしのもとを去ったのです。いまも分からないのですよ。こんなステキな人を置いていくなんてね(笑)。



その当時の1970年代は、だれもが禅について関心をもっていました。多くのイギリス人がビートルズを通して、禅やインドのヒンズー教を知るようになったのです。

幸運なことに、当時わたしが暮らしていたバーミンガムに禅寺があり、曹洞禅の先生に引き合わせてくれました。そのときの指導は、いまでも覚えていますよ。先生はわたしを壁に向かって椅子に坐らせ、

「あなたの前にあらわれるものを、ただ見つめなさい」

と言いました。私には、それで十分でした。



坐禅をするようになり、仕事を始め、家を買い、生活を立て直しました。

でも、女性には近づかないようにしましたけどね(笑)。



坐禅では、6つの感覚器官(六処)のドアのところ、つまり内側と外側の境界のところに、いつも自分がいるという感覚があります。

実際、来日中に滞在した總持寺祖院(石川県輪島市)では、朝の坐禅中に、鐘がずっと止むことなしに鳴りつづけていました。ボーンと音が鳴ったら、消えていくのを待って、消えたらまたボーンと鐘が鳴りました。

坐禅で強調されるところは、自分の内側と外側で起きている全ての感覚に対して、常に気づいている、目覚めているということです。



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Samgha JAPAN(サンガジャパン) vol.29

「時間がきたら死ぬだけです」【スマナサーラ】


From:
Samgha JAPAN(サンガジャパン) vol.29


話:アルボムッレ・スマナサーラ




私は、キリタラマヤのお寺に修行道場のビルを建てています。

最初にまず見積もりを取ったら、ものすごい金額でした。とてもそんなお金は出せません。ですから

「わたしは今、自分がもっているお金を全部つかって造ります。途中でお金がなくなったら、そこで完全に停止させます」

と、決めたのです。

「途中まで造って、残りはどうするんですか?」

と聞かれても、それは私に関係ありません。



3階建てのビルなのですが、予算のなかで骨組みと床スラブはできました。壁も造れました。今、タイルを貼っているところです。タイルをぜんぶ貼るために必要なお金は払っていますが、そこまでで資金がゼロになります。

そのときに「死ぬ前に造って終わりたい」などという非合理的な考えはもちません。「これ以上お金があったら、電気にもトイレの設計にも、まだまだ結構お金がかかるので、それはそれで大ごとだ」というふうに考えます。

合理的に考えれば、苦しみなないのです。「お金がもうなくなりました。そこから先は知りません。後の人が勝手にやってください」と淡々としているので、苦しみはありません。




サグラダ・ファミリアという教会にしてもそうでしょう? 

建築家ガウディは、彼ならではの仕事をしました。サグラダ・ファミリアの設計は、キリスト教というよりも「神は自然そのもの」というコンセプトなのです。自然体にある不思議な調和、不思議なバランス、奇妙なことも、びっくりすることも、すべて彼ならではの哲学でまとめたものです。

ガウディが死んでけっこう時がたっていますが、まだ建設中ですね。あと100年、200年、300年後ぐらい先に完成しても、「別にいいんじゃない?」という感じです。サグラダ・ファミリアは、資金があれば完成できるでしょう。しかし、時間はかかります。一年や二年で完成することはあり得ません。

しかし、誰も「なにが何でも、あと一年で完成させるぞ」などとは思わないので、一人も悩み苦しむことなく、あの教会がちょこっとずつ現れてきているのです。



もし、わたしが窓口のなかで対応する立場だったら、その仕事に従事する時間というものがありますね。たとえば、3時間その仕事をすることになっていたら、順番に、その窓口に並んで順番がきた人に対応してあげて、その人が終われば、次に並んでいる人に対応してあげて…と、それを3時間くり返していきます。

やがて時間がきたら、私はそこを立ち去るだけ。

「こんなにまだ並んでいる残りの人はどうするの?」

と聞かれても、それは私の管轄ではありません。わたしは自分に与えられた3時間で、たとえば300人に対応し、あと700人並んでいるなら、その700人は他の人が対応します。わたしが担当する世界とは別世界です。

つまりこれは、人生のたとえです。

私たちの希望が優先順位にしたがって並んでいます。その希望に一個一個対応してあげて、やがて時間切れになったら自分はあの世へいくのです。希望に一つずつ向き合っていたなら、「しっかり仕事をしました」という充実感をもちながら死ねます。

もし私が、希望に対応する時間のなかで、優先順位を無視して、後ろの人を先にやったりしたらどうなるでしょう。スリランカで、仮に窓口に人がたくさん並んでいて、後ろの人を先にやったら殴られます。大失敗ですし、違法でもあります。

実際のところ、われわれは毎日、違法な行為をしています。



希望というのは、なにか用事があって窓口に並んでいる人々だと考えるようにしてください。

たとえ、その窓口に一億人が並んで順番を待っていたとしても関係ありません。窓口の担当として、希望を一つずつ一つずつ解決していくだけ。

そこで自分の時間が切れたら、死ぬだけです。自分が死ぬときに、まだ無限の希望たちが並んでいても、なんの意味もありません。希望たちは「わたしの希望」です。「わたし」がいなくなったら、希望たちも自動的になくなります。

どんな希望も、自分が生きているならば成り立つ、一時的な希望です。ですから希望というのは、全部どうってことはないものなのです。






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Samgha JAPAN(サンガジャパン) vol.29

2018年4月28日土曜日

ノコギリで手足を切り落とされても…


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Samga Japan Vol.29





話:バンテ・ボーディダンマ




このようなたとえ話があります。

もし盗賊たちがやってきて、ノコギリで私たちの腕や手足の一本一本を切り落としたときに、たとえ一筋でも怒りや憎悪の念を感じたなら、仏さまの教えに従っていないのだ…、というものです。





痛みを感じたら、その痛みによって引き起こされる嫌な気持ちや、恐れの感情に気づいて、はっきりと認識し、嫌な感情が消えていくまでを、しっかりと経験します。

痛みに対する反応が消えて無くなったときに初めて、痛みを痛みそのものとして、あるがままに観察することが可能になります。

瞑想が十分に安定して、痛みに動じなくなったその時に、痛みの内に入って、痛みと呼ぶものが一体なにから成り立っているのかを観ることが可能になります。

そして、不快なもの、嫌なものという痛みに対する認識が覆されるのを目の当たりにして、驚かされることでしょう。「痛み」や「不快さ」の代わりに、「緊張」「熱」という、よりシンプルな身体的感覚が体験されはじめるからです。さまざまな身体的感覚が働きあって、「痛み」という感覚・感触をつくりだしているのです。

そして、このように痛みが経験されるとき、そこには苦しみがないことに気づいてください。この認識はとても重要ですから、忘れないでください。このように観察され体験された「痛み」は、もはや「dukkha(苦しみ)」ではありません。

痛みから生じる「苦」というのは、実際には「痛みとの関わり方」「自分と痛みとの関係性」のことなのです。






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Samga Japan Vol.29

「イラッ!」としたらば…


From:
Samga Japan Vol.29





話:バンテ・ボーディダンマ




あなたはイライラする瞬間に気づきますか?

たとえば、このような場面をみてみましょう。

あなたはリトリートに参加して瞑想しています。静けさのなか、心がゆっくりと落ち着いていくのを感じています。その時、ドタバタと遅れた人が部屋に入ってきました。

「なんと不注意な!」

あなたは深く息を吸って、気を取り直し、ゆっくりと集中を高めていきます。すると今度は、すぐ背後で誰かが大きく咳をしました。これにはやはり、イラッとします。

さらには、数々の無明のベールを通り抜け、いよいよ真理の深みに到達せんとする、その時、力強いクシャミが鳴り放たれます。…もう、たくさんです。

「ここにいる瞑想者には、マナーというものがないのか!」

このような小さな苛立ちが起こったら、ただちに他の誰も自分を怒らせることはできないことを思い出さなければいけません。そして、邪魔をした人に心から感謝をしましょう。なぜなら、その人はそうと知らずに、私たちがどこでつまずいているかを教えてくれたからです。



ヴィパッサナー瞑想を正しく行じるならば、私たちをイラッとさせるものなど、何ひとつないでしょう。「イラッ」とする感覚それ自体も、観照され経験される瞑想の対象になるからです。

もし、瞑想の邪魔をされたと感じてイラッとしたときは、修行に対して狭い視野になっていないか、確認しましょう。「修行はこうあるべきだ」「瞑想者ならこうするべきだ」といった理想に陥っている自分の心の状態に気づいてください。

これらの「~すべき」「~ねばならない」などの言葉は、自分のつくりあげる「理想」から生まれます。そして、この理想に縛られた狭い視点をよりどころに、私たちは関わる人や事柄を思い通りにしようと試みます。それは瞑想意外の時間、日常の生活のいたる場所で当然おこることです。



私たちの注意を引きつけながら、森羅万象は生じては消えてゆきます。

今日一日、明晰な気づきの内にとどまって、すべての「すべき」と「ねばならない」を捨ててしまいましょう。



「すべての現象は過ぎ去っていく」ということを、もう一度思い出してください。






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Samga Japan Vol.29

「嫌!」という心の反応が消えはじめると…


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Samga Japan Vol.29





話:バンテ・ボーディダンマ




自分以外には誰も、心理的な苦痛を自分に与えることはできないことを、まずは正直に認めなければなりません。

私たちの「dukkha(苦)」――苛立ち、不満、苦しみ――の答えは、心の中にあるからです。

この事実は、他人のせいにすることで得てきた安堵感を奪いますが、代わりに自分の心に責任を持ち、困難なことであっても、状況を解決するための力が与えられるでしょう。



私たちは、これらの感情・感覚を、機嫌を損ねた子供のように扱う必要があります。

自然界の台風と同じように、感情や感覚のエネルギーを現れるままにまかせると、エネルギーを使い果たしたあとで、自ずと消滅するものです。



仏さまは「feeling in feelings(感覚を感覚の中で)」経験するという言葉で、感覚に開いていくことを説いています。



何よりも大切なのは、自分自身が苦しみを作り出す、そのカラクリにしっかりと気づき、その気づきと認識を、苦しみを終わらせるための、さらなる動機づけとしていくことです。

これは、私たちにできることです。



瞑想中の姿勢から生じる、身体の痛みというものがあります。

膝の痛みは、過ぎ去るのを待つことができないほど、ひどい痛みになりがちです。ずいぶん昔のことになりますが、禅の修行をはじめたばかりの頃、痛みを我慢して座りつづけたことが原因で、私の膝は脱臼するクセがついてしまいました。

このようなときは無理をせず、椅子に座り、痛みがひくのを待つことも、とても大切なことです。

その一方で、脈打つ膝の痛みは、気づきや智慧にとっては、非常によき友であると言えます。何より、痛みは忍耐と寛容を教えてくれます。加えて、強い痛みは感覚への集中を助けてくれます。

そして、観察と経験を通して「痛み」が、私でも、私のものでもない「無我」であることを教えてくれます。私たちの好き嫌いにかかわらず、また私たちの意向に関わりなく、痛みはそれ自体の不満(苦)を表現するのですから。



「痛み」と、その反応としての「苦」を識別します。

この身体の痛みからくる「苦」は、仏さまが「dukkha-dukkha(苦苦)」と呼ぶ、苦痛を苦とする状態のことです。

この「痛み」と「苦」を識別することは、とても大切なことです。そして、悟りに至ったときに消滅するのは、この2つのうちの「苦」のほうだと言われています。

身体がある限り、身体の痛みは自然なこととして起こりつづけることでしょう。しかし、「嫌!」という心の反応が消えはじめると、「痛み」との新しい関係がはじまります。

痛みがあっても、完全に落ち着いた穏やかさのなかに留まりつづけることが可能になります。心の平安と静けさが、痛みが私たちを苦しめているのではなかったことに、気づかせてくれるでしょう。

痛みではなく、心の反応の仕方が「苦」をもたらしていたのです。



実際のところ、「痛み」というものは存在しません。

存在しているのは、さまざまな身体的感覚だけです。この気づきとともに、「痛い」という感覚さえもが消滅していきます。

この段階において、「無常」の真理がはっきりと認識されはじめます。あらゆる感覚が、一瞬一瞬に生じ、そして消え去っていきます。すべてが束の間に過ぎていく一連のエネルギーでしかありません。

その時には、身体の痛みは瞑想者にとって祝福となるでしょう。






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Samga Japan Vol.29

2018年4月27日金曜日

「希望が人を苦しめるのです」【スマナサーラ】


From:
Samga Japan Vol.29





苦しみは希望がつくる
アルボムッレ・スマナサーラ




私のメガネはよく見えなくて、階段でも平らに見えるほどです。

ですから、大事なのはただ、一歩一歩どう進むか、です。気をつけて一歩一歩、進む。その結果として、ぶつからないで、ケガもしないで、部屋に帰れます。



われわれの頭の中に希望は無限にあります。

希望、希望、希望ばかりです。完全に病気なのですが、しかし、希望が一兆個ぐらいあっても、実際、われわれは自動的に何かを選んで動いています。

たとえば、億万長者になる希望があり、そして今、おなかが空いているとします。希望は2つですね。「ご飯を食べなくちゃ」と「億万長者にならなくちゃ」、どちらを実行に移しますか?



われわれの仕事は「今、どうすればいいか」だけなのです。

「いいえ、おなかが空いたけれど、億万長者になる希望もありますからね、それを先にやって、それからご飯を食べます」といったような生き方をするな、とお釈迦様はおっしゃっています。



自分の希望を、ちょっといろいろ考えてみてください。自由に妄想できるので、放っておくと実にさまざまな希望が出てくることでしょう。

でも、仮に一兆個ぐらい希望があっても、短い人生で全部叶うわけがありません。結局ただの妄想で終わったりします。



表面上、ちゃんと生きているように見える人でも、余計な希望が頭に入ってしまって、あれもやらなくては、これもやらなくては、とグルグル頭でかき混ぜたりしていると、やっぱり悩みが生まれてきます。

今、やるべきことに集中しないで「本当はこもしたい」「ああだったらいいなあ」などと妄想概念でいっぱいになります。







希望というのは、何か用事があって窓口に並んでいる人々だと考えるようにしてください。希望たちがきちんと列をつくって行儀よく待っています。

たとえその窓口に一億人が並んで順番を待っていたとしても関係ありません。窓口の担当として、希望を一つずつ一つずつ、解決していくだけ。そこで自分の時間が切れたら死ぬだけです。

自分が死ぬときに、まだ無限の希望たちが並んでいても、何の意味もありません。希望たちは「私の希望」です。「私」がいなくなったら希望たちも自動的になくなります。



「苦」というのは、実現しない・できない、無数・無限の希望の堆積物です。

希望は人を苦しめるのです。希望はすべて叶ってほしいものでしょう? ですから、どの希望が一番いいということはありません。そのとき、なんとなくある一つの希望にこだわってしまったりするだけ。どの希望であっても、引っかかってしまうと苦しくなるのです。



人間はまず、限りのない希望をつくるという、間違った生き方をしています。

希望というのは、叶えるための時間を要します。そして、私たちの時間には「寿命」という限りがあります。延ばすこともリセットすることもできません。寿命はどんどん減っていって、いつか死んでしまうのですね。

だから無数の希望があったら、その無数の希望が叶うためには一億年かかるかもしれません。でも自分に与えられた時間は、たった60~70年程度。80歳になってくると希望を叶えるどころか、なにもできなくなってきます。



人間は自己観察しないまま、希望だけをとことん増やし続けてしまいます。

その分いつでも、現実離れに次ぐ現実離れです。現実離れというのは、要するに今を生きていないという状態です。すると、その人は何をやっても失敗します。何ひとつも、成功することができなくなるのです。

希望ばかり追っていて、今を生きていないからです。たくさんの希望はいわば妄想の山です。



あなたに何か希望がありますか?

もしその答えが「あります」なら、あなたは苦しんでいるということになります。そして、「いいえ、一切希望なんかありません」と答える人は、覚っています。

希望は妄想概念だから、人を苦しませるしかないのです。



「ご飯を食べたい」というような、具体的な希望なら問題ありません。

精神的な病気につながってしまう希望とは、合理的でなく、具体的なものでない希望です。たとえば「みんなに好かれたい」「みんな私のことを認めてほしい」という希望をつくったりすると、病気になります。



「ドゥッカ(苦)とは何ぞや」と言えば、いたって簡単な答えになります。

苦しみとは、人の心にある希望の量なのです。







合理性や理性がない世間の人間は、好き勝手に妄想工場で希望をつくってしまいます。

希望が増えれば増えるほど、苦しみが増えます。うまくいかないという落ち込みが増えます。手も足も出ないという苦しい状態が増えます。いてもたってもいられない状態をつくります。

本当は、いたって簡単に生きられるのに。空気のように生きられるのに。



生きることというのは、例えれば、枝にある葉っぱがいつか落ちる、そのような簡単なものなのです。風にそよぎ、いつか枝から抜けて、ゆらゆらと待って地面などに落ちる。

そこに何の心配や不安があるでしょうか?



生きるということは、葉っぱが枝から落ちるように簡単なのです。仏教は、そういうところに達してください、頭の病気を治してください、と言います。

世間に生きる人々は、希望があればあるほど、心配になったり不安になったり、苦しんでしまうので、仏教では「希望がドゥッカ(苦)だ」と言うのです。



覚りに達した人は、どうしても生きているので、その日その日にやるべきことをしっかりやっているだけで、希望はゼロ。

つまり、希望が消えたら覚っている。希望があるならば、まだ覚っていない、苦しんでいる、ということです。




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Samga Japan Vol.29



そこには無い「痛み」のメカニズム


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サンガジャパンVol.29
苦しみを癒やす「愛」の育み方
対談 小池龍之介 前野隆司





――前野先生は以前、「痛み」というものを「電気信号」という観点からご説明されていましたが、そのような見方で理解すると、どのようになりますか?


前野隆司 痛みは電気信号によって作り出されているものです。身体の痛みも心の痛みも、脳の同じような場所で感じていると言われていますね。

指を切って痛くても、指には痛覚受容器、いわゆるセンサーしかありません。つまり痛みはそこにはなく、実際は脳の感覚野の神経細胞が発火することによって、痛みを感じているにすぎないのです。

つまり、不思議なことに、痛みとは本当は存在しないものなのですよ。





小池龍之介 皆、痛みを実体であると勘違いしています。しかし、本当はそこからやってきた神経信号のデータを元に、脳が「そこが痛い」と感じるデータを出力して「その場所が痛いといういうリアリティーを出す詐欺」みたいなことを行っているにすぎないのです。

その痛い場所に、座禅をしていてありのままにじっと意識を向けていくと、脳が見せている塊のような痛みではなくて、もっと細かな電気エネルギー状の流動的感覚を感じます。電気エネルギーがピピピピピンと流れたり滞ったりしているだけで、痛いという現象は起きていないとわかってくるのです。

初心者の方であっても、「痛みを見ていてください」と言うと、痛みだと感じていたものが、何かドッドッドッという血の流れのようなものの生滅と感じられることがありあす。生滅の間には、痛くないと感じている瞬間があるとおぼろげに自覚できて、痛みがあまり気にならなくなってくる場合もあります。

もし感情を揺らさずに、その現象をもうしばらくそのまま眺めていられれば、ドッドッドッと感じられていたものが、もう少し精密にドン・ドン・ドン・ドン・ドドン・ドン・ドン・ドン・ドドン・ドン・ドンというように感じられてきます。

脳で編集されたものがここまでほどけてくれば、もう痛みとは認識できなくなります。要するに、ありのままに近づけば近づくほど、脳が作っている痛みを感じなくなるか、実はなかったのだとわかるのです。







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サンガジャパンVol.29
苦しみを癒やす「愛」の育み方
対談 小池龍之介 前野隆司




争いは知性が生み出す【Samga Japan】


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サンガジャパンVol.29
苦しみを癒やす「愛」の育み方
対談 小池龍之介 前野隆司




争いは知性が生み出す


――争いは苦であり、決して幸せではないはずです。しかし、個人同士の争いから始まり、大きなスケールで見れば戦争のような国家間の争いまで、この世にはさまざまなかたちの争いがあり、絶えることがありません。

なぜ人はこうも争うのでしょうか?


小池龍之介 根本にあるのは、「誰かが何かを余分に欲しい」と思うことでしょう。欠乏しているものをあの人から取りたいとか、あの国・集団から取りたいと思うこと。あるいは余分に与えられていないものを、無理やりもぎ取ろうとすることに、争いは端を発しているような気がします。

余分に欲しいと思うようなものは、実際にある物質に限りません。身近な例でいえば、奥さんが旦那さんに「これやって、あれやって」と、自分ではあまり動かないで、旦那さんにより多くのことをやらせようとするような場合があると思います。日本の伝統的な状況では男女逆かもしれませんが、いずれにせよ「より多くの労力を相手から得たい」とどちらかが思えば、相手は「自分のほうがたくさん奪われそうで怖い」と感じ、そこに争いが生まれます。

また、勝者だと見せつけたい気持ちと、防衛したい気持ちもあります。それが交差することで、家庭でも公共の場でも、あるいは国家間でも争いが起きるのだと思います。





前野隆司 「ライオンと戦ったらなら勝ちたい」「自分が殺されて死ぬのは嫌だ」「安全が欲しい」というのは本能ですからね。安全のためにはたくさん貯えたほうがより生き延びる確率が増しますから、余分に欲しいと思うのも本能でしょう。

本能というのは、本来、性欲や食欲、身体を維持したいという欲です。動物にもあります。しかし、その本能が現代になって、「あいつより豊かになりたい」という欲に変化したように思います。

ライオンと戦っていた時代には、勝たなければ死ぬから争っていた。けれども、平和な現代社会において、別に「あいつより給料が1.5倍なければ死ぬ」というわけでもないのに、「あいつに勝たなきゃ」と戦うのは愚かだと思いますね。


小池龍之介 性欲に関して言えば、動物は特定の時期が来たら本能で発情して交尾しますが、人間の性欲の中で本能と言えそうな部分はほんの少しで、あとは幻想の部分、知的な活動が非常に多くを占めているように思われます。


前野隆司 本能を延長して、必要以上に得たがっているということですよね。


小池龍之介 その「必要以上に」はおそらく本能ではなく、人間特有の文化的なものではないでしょうか。人間が知能に溺れてしまったせいで、本能だったら満足しそうなところでも満足しないで、欠落を感じてしまう。まだ足りないからあれが欲しいとか、これが欲しいとか、こういう状態になりたいとか、拡大しなければ気が済まないのです。

欲望は、本能をも破壊するような形でうまれているような気がします。





前野隆司 なるほど。そう捉えることもできます。そうすると人間の争いの原因は本能であるとは言えませんね。

人間が文明社会を作ってしまったことも原因の一つでしょう。大昔の人間は、身体も弱く、武器を作って生き延びるだけで精一杯で、富が蓄積するような状態ではありませんでした。それが、農業革命、産業革命を経て富を蓄積できるようになった結果として、人は本能を超えたところまで欲を増大させる楽しみを知ってしまったのだと思います。

私はよく森に入るのですが、寝転がって空を見ると、木の葉同士がちょうどいい具合いに争って、全員が太陽の光を得ていることに気づきます。木の葉っぱは「俺は太陽の光をみんなの100倍得て大きくなってやるぞ」とは思っていません。自分の分があります。猿や犬もそうですよ。自分が生きる分しか貯えません。

しかし、人間は違います。普通に生きるのに必要な分の一万倍稼ぐ人もいる。本当はそんなに必要なわけがないですよね。人間にはそれができてしまう知性があります。知性を得たために人間は今よりも豊かな自分を想像できるようになり、皮肉なことに、とめどない欲望も持てるようになりなった。

争いの原因は知性の暴走ですかね。


小池龍之介 「不相応」が一つのキーワードになりそうですね。与えられた分を守って、その中で成すべきことを完璧に成していたなら、心は平和で追い立てられることもなく、幸せにしていられるでしょう。







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サンガジャパンVol.29
苦しみを癒やす「愛」の育み方
対談 小池龍之介 前野隆司