2018年5月9日水曜日

「日曜日に教会に行かないとしたら、どうなるのだろう?」


From:
Samgha JAPAN(サンガジャパン) vol.29

話:バンテ・ボーディダンマ師




家族はカトリックでした。

母はイタリア人、父はイギリス人で、2人は第二次世界大戦中にイタリアで出会い、戦後に私が生まれました。



20歳のある日、朝起きて

「日曜日に教会に行かないとしたら、どうなるのだろう?」

という疑問が、浮かびました。その頃はまだ、日曜日に教会に行かないと、地獄に堕ちることが約束されていました。それも、永遠に!

そこで、なにが起こるか見てみようと思い、その日曜日は教会へ生きませんでしたが、なにも起こりませんでした。

それ以来、教会へは二度と行っていません(笑)。こんな風にして、私とカトリックとの関係が終わったのです。



サミュエル・ベケットは詩人であり、劇作家でもあります。彼の戯曲『ゴドーを待ちながら』を観たのが、人生のターニングポイントになりました。

その作品は「生きていくことの無意味さ」を表現していたのです。




また、アルベール・カミュの『シーシュポスの神話』にあるエッセイは、当時わたしが世界に対して持っていた見方や感じ方に、言葉を与えてくれました。

人生、そして存在の根源にある究極的無意味さ。ですが、その無意味ささえ私には、なにか意味のあるもののように思えたのです。




しかし、30歳のときに私の人生は崩壊しました。

妻がわたしのもとを去ったのです。いまも分からないのですよ。こんなステキな人を置いていくなんてね(笑)。



その当時の1970年代は、だれもが禅について関心をもっていました。多くのイギリス人がビートルズを通して、禅やインドのヒンズー教を知るようになったのです。

幸運なことに、当時わたしが暮らしていたバーミンガムに禅寺があり、曹洞禅の先生に引き合わせてくれました。そのときの指導は、いまでも覚えていますよ。先生はわたしを壁に向かって椅子に坐らせ、

「あなたの前にあらわれるものを、ただ見つめなさい」

と言いました。私には、それで十分でした。



坐禅をするようになり、仕事を始め、家を買い、生活を立て直しました。

でも、女性には近づかないようにしましたけどね(笑)。



坐禅では、6つの感覚器官(六処)のドアのところ、つまり内側と外側の境界のところに、いつも自分がいるという感覚があります。

実際、来日中に滞在した總持寺祖院(石川県輪島市)では、朝の坐禅中に、鐘がずっと止むことなしに鳴りつづけていました。ボーンと音が鳴ったら、消えていくのを待って、消えたらまたボーンと鐘が鳴りました。

坐禅で強調されるところは、自分の内側と外側で起きている全ての感覚に対して、常に気づいている、目覚めているということです。



From:
Samgha JAPAN(サンガジャパン) vol.29

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