2014年3月6日木曜日

風幡心動(ふうばんしんどう)


話:鈴木大拙

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はじめの問答はどういうことかというと、一般に”風幡心動(ふうばんしんどう)”ということを言っている。

広東の市に出て来られると、ある寺で坊さんが涅槃経を講ずるというのである。仏教の経典でもだいぶ大切なお経の一つであるが、寺院には幡(はた)がよく立っている。ことに日本でも曹洞宗の寺院になると幡が立っているのを見る。その幡が風で動く。すると寺の前で坊さんが議論を始めた。

「幡(はた)が動くのか、あるいは風が動くのか」

というような塩梅に。よく鐘が鳴るのか、撞木がなるのかというが、それと同じように、風が動くのか、あるいは幡がうごくのかと、非常に議論をやっておった。

するとそこに六祖(慧能)が出て来て、「それは幡が動くのでもなければ風が動くのでもなくして、これは汝の心が動ずるのである」ということを言われたという話がある。

これを”風幡心動(ふうばんしんどう)”と言って伝わっているのである。

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出典:『禅とは何か』鈴木大拙

2014年3月3日月曜日

現場ありき [原丈人]


話:原丈人


 父から聞いた話ですが、労働争議が非常に激しかった昭和30年代、父は電力会社からエアコンの売り込みにあった際、本社ではなく、真っ先に”工場”に設置したそうです。その理由は、

「いちばん暑いところで働いているのは工員だ。本社の社員や役員は、扇風機があって涼しく仕事をしているのだから、エアコンなんかなくていい」

ということでした。私は、それを聞いたとき、「当然だ」と思ったのですが、その次に父が発した言葉がいまでも頭から離れません。

「工場を働きやすくすると、会社は儲かり、経営者にとっても社員にとっても幸せにつながる」と。

 父は発想が変わっていて、社用車にクーラーを設置するときも役員の社用車ではなく、トラックからクーラーを設置しはじめました。それも工場にクーラーを設置した理由と同じです。父は

「現場がいちばん欲しいことをするのが経営者だ」

ということをしきりに言っていました。

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引用:原丈人『だれかを犠牲にする経済は、もういらない』


2014年3月2日日曜日

敗者への敬意 [野々村直通]


話:野々村直通


 たとえばメジャーリーグでは、ホームランを打った打者が派手なガッツポーズをしながらベースを一周すると、次の打席で頭部へのデッドボールを狙われると聞きます。対戦相手への敬意を欠くことで、倍返しされるわけです。

 私が高校野球の監督だったとき、ヒットを打って拳を突き上げて喜ぶ選手には、厳しく怒っていました。自分だけで打ったのではない。みんなが打たせてくれたのだ、と。もちろんスポーツでは、瞬間的に体で喜びを表現してしまうことがあります。だから、選手たちには「ガッツポーズはベルトよりも低い位置でしなさい」と指導していました。

 自分自身の態度にも気をつけていました。私は監督として、夏の甲子園の島根県予選で7回優勝しています。優勝直後にはメディアのみなさんから「グラウンドで胴上げを」とリクエストされます。もちろん私にも思い切り喜びたい気持ちはあります。それでも、胴上げはすべて断ってきました。

 なぜなら、グラウンドには敗れたチームがまだ残っているからです。最後の甲子園を目指して努力してきた対戦校のことを考えると、彼らの目の前で胴上げをすべきではないし、それがスポーツマンシップだと思いました。私が胴上げされることで良い写真を撮れるかもしれません。しかし、写真に写らない部分には、悔し涙を流している選手がいるのです。

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 出典:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2014年 3/13号 [雑誌]

2014年2月12日水曜日

イエスの性欲 千石剛賢


話:末井昭


 (『父とは誰か母とは誰か』を)読んでいて一番驚いたのが、イエスにはなぜ性欲の悩みがなかったのかというところでした。

 おそらくどこの教会に行っても、イエスの性欲のことなど問題にしません。問題になったとしても、主イエスは神であり神に性欲の悩みなどあるはずはない、ということで片づけられるはずです。しかし、それだと聖書は神話になってしまいます。聖書が神話なら、我々の生活とは関係のないただのファンタジーです。

 千石さん(『父とは誰か母とは誰か』の著者)は、もしイエスに性欲があって女性問題があったとしたら、聖書にそのことが書かれているはずで、都合が悪くて隠しているのなら、聖書は嘘ということになると言います。あくまでも真実が書かれているという前提で聖書を見ているのです。しかし、聖書のどこにもそのことは書かれていない。

 ではなぜイエスに性欲の悩みがなかったのか。それはイエスに原罪がなかったからだと。原罪とは、人間誰しも持っている自我のことで、原罪がないと他人という意識がなくなります。千石さんは、この本の中で

「イエスには、要するに、性欲の悩みというのはなかった。健康な男子なのに、なかった。その理由は<原罪>がなかったから。そのことは、女という、また男という、性別は認識しても、セックスの対象、つまり性欲の対象としては認識されなかったということです。この喩えを強いて現実の場に求めるとすれば、たしかに、親は自分の息子と娘は認識します。ところが娘に対して性欲の対象としては認識しません。正常な精神状態であればね。今は、近親相姦とかそんな無茶苦茶なことが言われてるから、これはもう話になりませんけども。もちろん、親のその感覚が、そのまま<原罪>のないイエスということに当てはまるかというと、それは当てはまりません。けれども、喩えとしてなら言えるということです」

と言っています。イエスに原罪がなかったなら「わたしはあなかがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである(マタイ5-28)」と確かに言えます。それまで、聖書は神話だと思って読む気もしなかったのですが、このイエスの性欲の話が糸口になって、聖書の真意はなんなのか興味がわいてきたのでした。

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 僕は人見知りが強くて、読んだ本の著者に会いたいと思ったことなど一度もなかったのですが、『父とは誰か母とは誰か』を読んで、千石さんに無性に会いたくなりました。

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 しばらくして、黒い詰め襟の服を着た千石さんがニコニコしながら入ってきて、「これはこれは遠いところから」と僕らをねぎらってくれて、きさくにインタビューに応じてくれました。

 最初に聞いたのは、一番頭に残っていたイエスの性欲のことです。千石さんは原罪の話は僕らには難しいと思ったのか、イエスに性欲がなかったことを、別の角度から話してくれました。

「何かに熱中している場合は性欲は起きない。たとえば野球がクライマックスになっているとき、満塁でこの一球が勝負みたいなときに、キャッチャーがきれいな女の人で股を広げていたとしても、そのときピッチャーに性欲は起きない」と。

 まあ、確かにそうです。精神状態があるところまで高揚したら性欲は起きない、つまり、あのイエスは四六時中おそろしい精神の高揚状態にあった、と千石さんは言うのです。その話を聞いて、十字架に掛かっているあの弱々しいイエスのイメージが崩れたのでした。

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 「愛」という言葉は世の中に氾濫していますが、愛とはなんなのかということは、実は僕もよくわかっていませんでした。「俺がこれだけおまえを愛しているんだから、おまえも俺のことを愛してくれよ」というのは、愛の商取り引きのようなものです。見返りを求めない、無償の愛というものが本当の愛だと思うのですが。

 聖書には、「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない(ヨハネ15-13)」と書かれています。これを千石さんに解説してもらうと、「友」というのは、単に友達ということではなく、相手の中に自分自身が見え始めている他者のことだ、と言います。

 自分と他人を(区別ではなく)差別していると、愛というものは生まれない。自分が自分のままで相手を愛そうとしても、すべて偽善になってしまう。だから、他者の中に表れた希薄な自分をもっとはっきりさせるために、生まれつきの自分を二義にしていく、つまり自分を捨てて、他者のことを真剣に考える。そうすることによって、生まれつきの自分は死んで、罪からも解放される、と言うのです。

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出典:『自殺』末井昭


2014年1月23日木曜日

逆方向の電車  末井昭


話:末井昭




 人身事故、つまり電車に人が飛び込むのが一番多いのは”月曜日”だそうです。学校でいじめられたり、会社で孤立したり、業績が上がらず上司から嫌みばかり言われたりしている人には、休み明けの月曜日はつらいかもしれません。

 しかし、早まって電車に飛び込まないでください。そういうときは反対側のホームに行き、”逆方向の電車”に乗ることです。僕も会社に行きたくないとき、逆方向の電車に乗ることがたまにあったのですが、行き先が決まっているわけではないので、適当な駅で降りて、駅の周りをブラブラ歩き回ったりして、最終的にはパチンコ店に入るぐらいなのですが、それでも気分は少しは変わります。

 会社や学校やアルバイト先に行く電車が世間に向かっているとすれば、逆方向の電車に乗ることは、世間に背を向けることです。世間の尺度から離れて、できれば一生世間から離れて生きていければ、世間の煩わしさに悩むこともありません。



 そんなことを考えているとき、ふと入った本屋さんで『生きづらさの正体  世間という見えない敵』というタイトルが目に入りました。まさに自分が考えていることと同じだと思って、その本を即購入して読みました。この、ひろさちや氏の本は、夏目漱石の三部作『三四郎』『それから』『門』、カフカの『変身』、旧約聖書の「ヨブ記」を題材に、世間から外れた者が、世間からどういう扱いをされるかが書かれていました。

 世間というものは幽霊のようなもので、幽霊にびくびくしている人に幽霊が出るように、世間を怖がる人に世間圧が掛かってくる。しかし、革命運動家やアウトロー、世間に反抗する若者たちには、世間のほうが恐れて世間圧は掛からない、と書かれています。そして、

 いいですか、あなかは世間から、良き夫、良き父、良き会社員であることを期待されている。あなたは良き夫、良き父、良き会社員であらねばならないのだ。 しかし、あなたは、絶対に、 ーー真の人間ーー であってはならない。あなたは良き人間であらねばならないが、あなたは真の人間であってはいけないのだ。もしもあなたが真の人間であろうとすれば、それは世間の禁忌に触れたのであって、あなたは「深海魚」に変身させられてしまう(『生きづらさの正体』ひろさちや)。



 という箇所に、なるほどと思いました。「深海魚」とは、社会からバッシングされ、世間という大海の底に深く潜って、あまり動かずひっそりと生きなければいけないことを、著者が比喩として使っている言葉です。世間サマは良識のある善良な人を歓迎しますが、真の人間を嫌うのです。真の人間とは、人間らしく生きることを望み、人としてどう生きたらいいのかを問い直し、その答を求めようとする人です。

 では、なぜ世間サマは真の人間を忌み嫌うのか。それは、自分たちが信じているものが、脆くも崩れ去ってしまうからです。真の人間から見れば、世間なんて映画のセットの書き割りかハリボテのようなただの見せかけです。世間サマが価値としているものは、ただの「存在のうわべ」です。そんなものに価値なんかありません。

 世間になんの疑いもなく順応し、生きていくことになんの苦痛も感じない人は、自殺なんて考えないでしょう。しかし、世間にどうしても収まることができず、その軋轢で自殺を考えている人は、世間に背を向けて生きればいいのではないかと思います。それが自由ということです。自由とは輝かしいものではなく、孤独で厳しいものですが、真の人間として生きる喜びがあるはずです。

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”自殺する人は、真面目で優しい人です。感性が鋭くて、それゆえに生きづらい人です。生きづらいから世の中から身を引くという謙虚な人です。そういう人が少なくなっていくと、厚かましい人ばかりが残ってしまいます。だから、生きづらさを感じている人こそ、死なないで欲しいのです…(末井昭)”



引用:『自殺』末井昭