2013年3月19日火曜日

戦後の英雄政治家たちよ…



戦後の「壊滅的な敗戦」。

そのドン底から這い上がる「奇跡的な発展」に、日本の「政治」は大きく貢献していた(今では考えられないかもしれないが…)。

「世界でも稀に輩出するような『立派なリーダーの群像』が戦後を彩った(島田晴雄)」



吉田茂、日本の独立を成したあとの彼は、「朝鮮戦争に参加しない」という奇跡を演じてみせた。

アメリカから派兵の圧力が重くのしかかる中、吉田首相は「共産化への危惧」を盾に、朝鮮戦争への日本の不参加をアメリカに承服させたのである。

「それが戦後の平和日本の礎になった(島田晴雄)」






岸信介、彼の「安保改定」は国内では著しい不評を買ったものの、それは偉大な業績であった。

吉田総理が結んだ日米安保は、「植民地安保」とも揶揄されるほどに隷属的、そして屈辱的なものであった。ゆえに、岸総理は「この不平等を何とか変えたい」と願ったのである。



その不平等条約を是正するため、岸総理はアジア諸国、オーストラリアやニュージーランドを歴訪。賠償を確約していった。「ニュージランドでの謝罪演説では、スタンディング・オベーションが起きたとさえ言われる(島田晴雄)」

こうした「海外諸国の信頼」という成果とともにアメリカはワシントンに赴いた岸総理。安保改定の提案を行い、苦労の末に「対等に近い安保条約」を結ぶに至るのである。






その後、池田勇人総理が所得倍増計画を前倒しで達成すると、佐藤栄作総理のときに日本はOECD(経済開発協力機構)への加盟を果たす。つまり「先進国」の仲間入りをしたのである。

同佐藤総理は「沖縄返還」をも達成。田中角栄総理は、大戦後に断絶していた「日中国交」の正常化に成功する。

まさに、戦後の日本政治は「世界でも稀に輩出するような立派なリーダーの群像」に彩られていたのであった。






こうした卓抜したリーダーを支えたのは、「世界最強のシンクタンク」と言われた優秀な官僚集団である。

さらに当時の自民党は、多数の政党が入り乱れて成立していた経緯をもつため、「それらが常に内部で切磋琢磨し、政治力が磨かれた(島田晴雄)」。



政治・官僚・業界、これらの織りなす「鉄のトライアングル」。通常予算の倍以上もある特別会計は、このトライアングルを不動もののとしていた。

しかし、あまりに不動であったため、そこに安住してしまった自民党。

「そこから自民党の趨勢的凋落がはじまった(島田晴雄)」



自民党の得票数は続落。単独過半数は遠のき、公明との連立も不可欠に。

「6割が世襲議員で、政治は利権化し、新しい血が入らない(島田晴雄)」

現在の日本の低空飛行、それは「政治と官僚の劣化」が原因である、と島田氏は述べる。



過ぎ去りし英雄の群像たち…。

叩かれても叩かれても潰れなかった彼らであるが、悠久の歴史の中にあっては蜉蝣(かげろう)のように儚い。

先人たちの言う通り、不幸のタネは幸運な時に撒かれるものなのであろうか…。






出典:盛衰 島田晴雄

2013年3月18日月曜日

「祭り」といえば、欠かせぬ「酒」



仏教は「悟り」の宗教、キリスト教は「祈り」の宗教。

では、神道は?

「『祭り』の宗教です。日本全国で一年間に行われる祭りの数は30万回以上。毎日、平均820回以上の祭りが、日本のどこかしこで行われているのです」と、松尾大社(京都)の佐古一洌(さこ・かずきよ)宮司は言う。



「神饌(しんせん)の上がらぬ祭りなし」

そう言われるように、神様のお食事である神饌(しんせん)の献供なくして、祭りは始まらない。そして、その神饌の中には必ず「お酒」が供えられている。

佐古宮司の松尾(まつのお)大社は「酒の神」。1,300年の昔から、酒造りの技術をもっていた新羅系の渡来人「秦氏(はたし)」との関わりが深い。







「秦氏の中に須須許里(すすこり)という方がおられて、この人が『お米を噛んで』お酒を造ったのです」と佐古宮司は語りだす。

「そのお酒を天皇様に差し上げたところ、天皇様はたいそう喜ばれた」



♪ 須須許里が、醸(か)みし御酒(みき)に、我酔いて

  事無酒(ことなぐし)笑酒(ゑぐし)に、我酔いにけり ♪
 
上機嫌の天皇様は、こんな和歌を詠んだそうだ。

「つまり、須須許里が造ったお酒を飲んで、平穏な酒(事無酒)で、ニコニコ顔(笑酒)になったということです(佐古宮司)」



その当時のお酒は「一夜酒(ひとよざけ)」がほとんど。そして白黒の二種。

「白は濁り、黒は木灰を入れて黒くしたもので、粥状の薬用酒です」と佐古宮司。

清酒が供進されるようになるのは、明治以降とのこと。



さすが、酒の神を祀る松尾大社の宮司、酔ってもいないはずが、お酒の話が止まらない。

「お酒を飲めば正直になります。『酒の中に真あり』と云われるように、お酒を飲むと本心を言うのです。逆に『盃の縁から秘密が漏れる』というのもありますが…」

「『飲酒十徳』というのは、お酒を飲むと十の徳があるということ。ですが、『飲酒三十六過』というのは、酒を飲めば36の過ちがあるということ…」

「酒は『百薬の長』か、それとも『百毒の長』か…」



とりあえず、その辺で…。






出典:致知2013年4月号
「祭りは真心の発露である 佐古一洌」

2013年3月17日日曜日

ひと目だけの網では…。



一目の羅(ら)、鳥を得ること能(あた)わず。

一両の宗、何ぞ普(あまね)く汲むに足らんや。



一目だけの網(羅)では、鳥を獲ることができない。

それと同様、一つ二つだけの宗教で、どうして全ての人々を救うことができようか。




〜伝教大師・最澄(天台宗)の言葉〜

高村光太郎と妻・智恵子の住む世界



「智恵子は見えないものを見、聞こえないものを聞く。

 智恵子は行けないところへ行き、出来ないことを為(す)る。」



夫・高村光太郎がそう書いたとき、妻・智恵子は「心の病」を患っており、コニュニケーションがとれなくなっていた。



「智恵子は現身(うつしみ)の私を見ず、わたしのうしろのわたしに焦がれる。

 智恵子はくるしみの重さを今はすてて、限りない荒漠の美意識圏にさまよひ出た。

 わたしをよぶ声をしきりにきくが、智恵子はもう人間界の切符をもたない。」



7年間の闘病生活の末、昭和13年(1938)、智恵子は他界する。

智恵子の心の病は、福島にある実家の事業破産がその引き金となった。「もともと芸術家肌で、『この世的な視点とは違う価値観』をもつ人だけに、身内が遭遇する苦難を見聞きすることが耐えられなくなったのかもしれません(鈴木秀子)」。



「されば君は安らかに眠れかし

 悪人のごとき寒き冬の夜なれば

 いまは安らかに郊外の家に眠れかし

 をさな児の如く眠れかし」







高村光太郎と、長沼智恵子が結婚したのは大正3年(1914)。智恵子は、高村よりも3つ年下の女流画家であった。

「キリストの代わりに、このやくざ者の前に、奇蹟のように現れたのが智恵子であった」

高村は彼女との出会いを、そう記す。



「あなたが私に会ひに来る

 そして二日でも、三日でも

 笑ひ、戯れ、又抱き

 さんざ時間をちぢめ、数日を一瞬に果す」

それは彼女の死を看取るまで変わらぬ想いでもあった。彼女が心を病んでしまっても、高村はそういう智恵子の姿を決して否定することがなかったのだという。



この世を「Doing」、つまり「やること成すこと」のみで評価するものだとしたら、「心を病んだ千恵子の行為は、はたから見たら不自然で、ときに異様に映ったかもしれない」。

しかし、芸術家の感性をもつ高村の見ていた世界は「Being」。「これをしてくれたから…」、「これができるから…」などという条件が一切なかった。たとえ病んだとはいえ、「智恵子は智恵子」であった。

そのBeingの世界にいる自分を、高村は「わたしのうしろのわたし」と詩中で表現している。その世界に入るためには、「人間界の切符」など必要ないのである。



さまざまな条件がつきまとう「Doingの世界」では、「見えないもの」や「聞こえないもの」、そして「行けないところ」や「出来ないこと」ばかり。

ところが一転、無条件の「Beingの世界」では、「見えないものを見、聞こえないものを聞く」、そして「行けないところへ行き、出来ないことを為(す)る」ことができる。

それは「限りない荒漠の美意識圏」であり、「くるしみの重さ」もない世界であった。




「(あなたは)あの蒼黒い空に汗ばんでいる円い月だ

 世界を夢に導き、刹那を永遠に置き換えようとする月だ

 それでいい、それでいい」








智恵子は亡くなる前、色紙をハサミで切りながら、それはそれは見事な紙細工をつくっている。

無条件の世界にいた彼女にとって、「このように仕上げないといけない」とか「上手くできない」などという思いとは無縁であった。ただただ我を忘れて、没頭して色紙を切っていたのである。



それはまさに「芸術家たちの住む世界」。

そんな純粋な智恵子の姿を見ながら、高村の心は清められていた。

「彼女の純愛によって清浄にされ、以前の退廃生活から救い出されることができた」と高村は述べる。



世間は、高村に同情していた。「可哀想に…」と。

しかし、高村はその世界にはいなかったのかもしれない。きっと、智恵子と同じ世界の住人になっていたのだ…。



「すべてから脱却して、ただあなたに向ふのです

 私にはあなたがある

 あなたがある

 あなたがある」





出典:致知2013年4月号
「智恵子は見えないものを見、聞こえないものを聞く 高村光太郎『智恵子抄 』」

2013年3月16日土曜日

二転三転、育児の常識。「花に心はあるのか?」



アフリカ・ウガンダのお母さんたちは「おむつ」を使わないという。

それを不思議に思った井深大氏、こう聞いた。

「どうして、赤ちゃんがウンチやオシッコをする前に分かるんですか?」



ウガンダのお母さんたちの答えは、じつに素っ気なかった。

「どうして、あなたには分からないの?」



母親と赤子が「密」な、同地のような育てられ方をした赤ちゃんは、「発達がすごく早い」のだという。

「生後2日で首がすわり、生後4日でニコニコ笑うんです」



今の医学では、生後2日で首がすわることも、生後4日で赤ちゃんが笑うなんてことも「あり得ない」。

たとえ、赤ちゃんの顔が笑っているように見えたとしても、それは「新生児微笑」にすぎないと一蹴されてしまう。西洋医学の言う新生児微笑とは、赤ちゃんが母親に捨てられないように、そう装っていることなのだそうだ。



さて、アフリカのウガンダも、すでに西洋の波に洗われている。

彼女らが西洋式の病院でお産をするようになると、これまた不思議なことに、赤ちゃんのウンチもオシッコも、そのタイミングが分からなくなるのだそうだ。

もちろん、生後2日で首がすわることも、生後4日でニコニコ笑うこともなくなったという。



ところ変わって「日本」。

日本の子育ても1945年、つまり第二次世界大戦を境に、激変を遂げたのだという。

戦後、アメリカのGHQの司令で、赤ちゃんは産後すぐに病院の新生児室に移すようになった。それは、戦前の日本では、ほとんどが自宅出産だったため、母子ともに死亡率が高かったからだ。



さらに昭和39年(1964)、赤ちゃんの自立を妨げるからという理由から、「泣いてもすぐに抱っこしてはいけません。添い寝もオッパイもやめましょう」ということになった。

要するに、戦後の日本の子育ては「赤ちゃんとお母さんを切り離す方向」に動いていったのである。

「赤ちゃんに心があるとしたら、きっと寂しかったろうと思います…」と、池川明氏(池川クリニック院長)は語る。



なぜ、そうした時代に生まれ育った世代は、すぐにキレるのか? 情緒が不安定なのか?

そうした疑問が国内に巻き起こるにつれ、「母子を切り離す育児法」は20年後、ついに改められることになる(その時の常識は、いまなお尾を引いているのだが…)。



ちなみに、戦後の育児法には、その「元本」があった。

それは「スポック博士の育児書」である。ここには西洋式の育児法のなんたるかが記されており、当然、抱っこも添い寝も否定していた。

その本を戦後の日本は鵜呑みにして、母子手帳の副読本「赤ちゃん、そのしあわせのために」を作成したのである。それが20年間、毎年全国で150万部が配布され、母子をできるだけ切り離す「育児の新常識」を形作っていったのであった。



この話には、まだ後日譚が残っている。

スポック博士は、著書「スポック博士の育児書」を書き上げたあと、じつは博士自らの手で7回も書き換えている。

最後の書き換えを終えた博士は、こう言った。「今まで書いてきたことは間違っていた。今回ようやく、それを正す本ができた」と。



7回書き換えられたという「スポック博士の育児書」。

しかし残念ながら、その初版を元にしている日本の母子手帳の副読本「赤ちゃん、そのしあわせのために」は、一度も書き換えられることがなかった…。







蛇足ながら、先日の「ダライ・ラマ法王」の話も。

来日した際に、持ち上がった議論の一つに「花に心はあるか?」というものがあった。

仏教と一口にいえど、時代と環境で大きく変わってしまっている。その結果、「花に心がある」とするのは日本の仏教だけのようであった。



古来より、日本民族は万物に神が宿る、ひいては「万物に心がある」との思想をもっている。

何もしゃべれぬ赤ちゃん然り、お腹にいる胎児も然り。日本人はそこにすでに心が宿っていると思ってきた。



しかしグローバル化の進んだ現代、「胎内にいた頃の記憶」などという話は、否定的な目で見られてしまう。

「パパがおへそをツンツンしてきたんだよ」などという子供の言葉は、冷笑ものである。それは西洋医学で証明されていないからである。

しかし幸か不幸か、そうした妄言を否定する科学的根拠も、またないのであった…。






出典:致知2013年4月号
「胎内記憶に耳を澄ます 池川明・村上和雄」