2016年3月7日月曜日

「絵文字の著作権を放棄します」 [勝見勝・東京オリンピック]


話:村越愛策





東京オリンピックは絵文字で


1960年の春、東京オリンピックを4年後に控えた日本の組織委員会のなかに、デザイン懇話会が設けられました。その座長に、冒頭に紹介した勝見勝先生が選ばれたのです。勝見先生は

「地球のあらゆる地域から人々が集まり、さまざまな言語が飛び交う国際行事では、たとえ公用語が決まっていても視覚言語の役割は大きい」

として「デザイン計画はすべてそれに基づく」というポリシーに沿って進めることを提案されました。



1964年の大会終了後、その結果は各国関係者に大きな影響を与えることになったのです。スイスで発行されていたグラフィック・デザインの専門誌『グラフィス=GRAPHIS』は

「1949年の国際道路標識は、部分的な成功を収めた実例であるが、この種のシンボルはあらゆる人種と文明のなかで容易く識別されなければならない。こうした課題のすべてが1964年に開催された東京オリンピックによって提起された。

旅行者で日本語のわかる人は例外であり、70ヵ国以上の参加者にとって唯一の共通点はシンボルのみである。勝見勝氏をリーダーに、若いデザイナーたちがスポーツをはじめ各種の施設シンボルのデザインに当たったが、これらのシンボルが次の大会にも採用されることによって、万国共通の視覚言語として磨き上げられることを望んでいる」

と記しています。





「わたしは直接オリンピックの仕事をしておりませんが、同じ時期に日本の表玄関となる東京・羽田空港のサインや絵文字にたずさわっていました。オリンピック以前の日本には、アメリカ人を除くと外国人が比較的少なかったためか、英語の案内だけでした。

しかしオリンピックとなると世界中から人々がやってきます。そのときに英語からフランス語、スペイン語、ロシア語、中国語、ドイツ語など、と各国語で場所などの案内を表記するのは不可能です。それで勝見先生は『絵文字をつくろう』と提案したのです」

これは2011年、小学館から出版された野地秋嘉氏の著書『TOKYOオリンピック物語』のなかの私の言葉です。同書には続けて

「オリンピックの絵文字は12人のデザイナーが3ヶ月かかって製作した。作業が終わったとき、勝見は『諸君、まことにありがとう』と頭を下げた。その後、書類を配り『皆さんのサインを下さい』と言った。書類の中身を確かめると、そこには

『私の描いた絵文字の著作権を放棄します』

と記されていた。これに戸惑うデザイナーたちに勝見は言った。

『あなたたちの仕事は素晴らしい。しかしそれは社会に還元すべきものです。誰が描いたものとしても、これは日本人のやるべき仕事なんです』

」と、野地氏が同書に後述しています。



勝見氏はまた、次のような言葉を残しています。

「わが国には視覚言語などという生硬な語呂よりも前に、ちゃんと『絵ことば』という用語があり、また紋章という世界でも最も完成した視覚言語の一体系が存在していた。オリンピックは国際的な広がりをもち、条件もきわめて複雑多岐にわたっていたが、本質においては紋章と同じであったと思っている。

ただ戦後の視覚文化の国際的風潮を踏まえてサイン言語の重点的使用に踏み切らせたものは、私のなかの文明批評と時代感覚だったといえるかもしれない」

と。








引用:絵で表す言葉の世界―ピクトグラムは語る (KOTSUライブラリ)



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