その「ユダヤの人」は、日本では少々失礼に思われた。
なぜなら、新築の家のお祝いに来て、「土地はいくら?」「ローンは?」「総額は?」などとズケズケと聞いてくるのだ。日本人の社交辞令などあったものではない。
それでも、それはユダヤの国・イスラエルでは少しも失礼なことではない。
なぜなら、お金に対する「マイナスのイメージ」が彼らにはないからだ。彼らを失礼と感じるのは、日本人がお金を勝手に「腹黒いイメージ(越後屋?)」と結びつけ、清貧(清く貧しいこと)こそが美学と思い込んでいるためでもある。
ユダヤ教によれば、お金は「神からの祝福」。
そして、どんなにお金を荒稼ぎしたとしても、世間に妬まれることもなければ、バッシングを受けることもない。というのも、彼らには「稼いだお金で他者を助ける」という大義名分があるからだ。熱心な信者であれば、年収の10%を慈善寄付などの施しに回す。
寄付といっても、ただ与えるばかりではない。教えによれば、施した金額は、のちに10倍となって返ってくるのだ。つまり、寄付は心を満足させるだけの消費ではなく、明らかな「投資」なのである。
ユダヤの民は長い間祖国を失い、流浪する国々で迫害を受け続けたという歴史上マレにみる不遇を生き抜いてきた。
それゆえに、生きる知恵というのは独特なのかもしれない。とりわけ、日本のような安定した島国とは考え方も根本的に異なるのだろう。そして、その彼らの逞しさが、この流れの激しい激動の時代にマッチするのかもしれない。
投資家のジョージ・ソロス、映画監督のスティーブン・スピルバーグなどの世界的な成功者は、みなユダヤ人である。
一般的に、ユダヤ人の成功の根底には「タルムード」と呼ばれる教えがあるという。しかし、より大切なことは、その教えを徹底的に「議論」することにあるとも言われる。
彼らのユダヤの人々は他人の情報を鵜呑みにはしない。たとえ宗教の教えといえどもそうで、その教えをどう解釈するかで激論を交わすのだ。
たとえば、ニュースでこんなニュースが流れたとしよう。「イスラエルで2人が死亡…」。
日本人ならばフーンと聞いて当然信じてしまうであろうが、あるユダヤ人はニュースも信じない。「これはウソだ。なぜなら…」。蕩々と自分の意見を語り始めるのだ。
自分に入ってきた情報を頭から信じるということはまずなく、必ずいったん自分の頭で噛み砕き、そして納得しなければ決して信じようとしないのだ。
そんな彼らにとって、「反対意見」は大歓迎。
日本人は自分の意見に反対されることに腹を立てるかもしれないが、ユダヤの人々はそれを「新しく革新的な考え」と受け止めるのだ。他人の意見をむやみに受け入れるわけではないが、「自分の中になかった考え」を大歓迎するのである。
「Why(なぜ)?」「Think(考えろ)!」
「なぜ、日本で贈り物をもらったら、半額分を返すのか?」
ユダヤの人は不思議に思う。彼らは「それが風習だから…」などという答えには満足しない。
「君はそれが正しいと思うのか? そもそも、なぜ半額なのか?」
日本人は汲々とするよりほか、ないであろう…。
出典:致知2012年12月号
「人生を劇的に変えるユダヤの教え」
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