「天下の副将軍さま」だった水戸光圀公、いわゆる「水戸黄門」が隠居して最初にやった仕事は、「自分の墓」を建てることだった。
本人の生前に建てられる墓のことを「寿蔵(じゅぞう)」というらしいが、その墓の裏面に刻まれた文章は、水戸黄門さま自らが考案し筆を取ったと言われている。
その文章の中にこんな一節がある。
「有ればすなわち、有るにしたがって楽胥(らくしょ)し、無ければすなわち、無きに任せて晏如(あんじょ)たり」
意訳すれば「あって幸い、なくて幸い」といったところか。ここには、じつに柔らかな考えが示されている。
こうした柔軟性は随所に見られる。
「歓びて歓を歓びとせず、憂へて憂を憂とせず」
ここには、物事に一喜一憂しない様が見て取れる。
じつはこの碑文の文章とは裏腹に、若き日の光圀公はチクチクに尖(とんが)っていたという。
たとえば、神道以外の宗教は一切認めず、仏教は「頭から否定した」。その頑なさは思想全般に渡るもので、自身が信奉する儒学以外の言論を認めようともしなかったという。
黄門さまが隠居するのは52歳だったというが、その頃までには十分にほぐれていたのであろうか。
「神儒(神道と儒学)を尊んで、神儒を駁す。仏老(仏教と老荘思想)を崇めて、仏老を排す」と碑文にはある。
「駁(ばく)す」というのは、反対するということであり、「排す」というのは、退けるということである。神道も仏教も、儒学も老荘思想もみんなひっくるめて大事にはするが、必ずしもいずれかを絶対視して言いなりになるわけではない、と宣言している。
柔らかいような、尖っているような…。
宮本武蔵は「独行道」でこう書いた。
「神仏を尊んで、神仏を頼まず」
黄門さまにも武蔵にも通じるのは、「行雲流水(こううん・りゅうすい)」。自然のままに流れゆくことなのかもしれない。
死ぬ前に墓を建てた水戸の黄門さまは、いったい何を思い、何を伝えようとしたのであろうか?
ひょっとしたら、この碑文は自分自身への戒めだったのかもしれない…。
出典:致知2012年12月号
「生前に自分の墓碑銘を刻む 水戸光圀」
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