2012年11月11日日曜日

不敵なる東郷ターン、バルチック艦隊を殲滅


ロシアのバルチック艦隊を眼前にした日本海軍。

その旗艦「三笠」のヤードには「Z旗」が翻った。この旗の意味するところは「皇国の興廃、この一戦にあり」という悲壮なる覚悟である。



そして、Z旗が掲げられた10分後、司令長官・東郷平八郎は右手を高々と上げ、左回しに回した。

「長官、取り舵ですか?」

参謀長の加藤友三郎は念のために聞き返した。東郷の命に従えば、それは敵艦の射程距離内での「敵前回頭」となり、常識的な海戦術では自殺行為とされるものであった。



「さよう」

東郷に迷いはない。

のちに「東郷ターン」とよばれる敵前大回頭のはじまりである。





「しめた」

バルチック艦隊を率いるロシアのロジェストヴェンスキーは、即座に一斉砲撃を命ずる。回頭中の戦艦「三笠」率いる日本海軍第一・第二艦隊は、静止した的のように狙いが定め易い。

無防備にハラを晒した「三笠」の右舷には敵弾が面白いように命中する。司令長官・東郷の乗る「三笠」は右舷側に40発、左舷側に8発を被弾した。その激震や凄まじい。ところが不思議なことに、艦橋最上部(司令塔)には当たらなかった。



奇跡的に魔の5分間を凌ぎ切った戦艦「三笠」は、ついに反撃を開始する。

日本海軍の砲撃はロシア軍のそれとは比較にならぬほど正確で、ロシアの旗艦「スワロフ」の司令塔をあっという間に吹き飛ばす。この時、その司令塔にいたバルチック艦隊の司令長官・ロジェストヴェンスキーは重傷を負ってしまう。



「勝敗は最初の30分で決まった」

そう言われる通り、大胆不敵な「東郷ターン」は絶大な功を奏した。皮を切らせて、骨を断ったのだ。

バルチック艦隊は38隻で日本海にやって来たわけだが、わずか2日間のうちに日本海軍は16隻を撃沈、6隻を捕獲、6隻は自沈という大戦果。ロシア港ウラジオストックまでたどり着けたのはわずか3隻だけだった。

まさに「殲滅」。完全勝利である。「大日本帝国万歳、大日本海軍万歳、世界空前の大捷(大勝利)、敵艦隊全滅」。当時の新聞にはそう報じられた。



「まさか…」

世界の列強はその第一報が信じられなかった。「極東の小国が大国ロシアの艦隊に大勝するはずがない…」。そのため、日本の同盟国だったイギリスでさえ、事実を再確認するために新聞の発行を遅らせたほどだった。



重傷を負っていたロシアの司令長官・ロジェストヴェンスキーは、白旗を掲げて降伏した艦の中で苦しんでいた。そしてその後、佐世保の海軍病院に移送されて手厚い看護を受けていた。

そのロジェストヴェンスキーを見舞った日本海軍の司令長官・東郷平八郎。

敬意ある東郷のいたわりに対して、ベッド上のロジェストヴェンスキーは「敗れた相手が閣下であったことが唯一の慰めである」と慇懃に答えたという。



日露の講和条約が結ばれた後、東郷は日本海軍の解散式を行い、「解散の辞」を読み上げる。

「連合艦隊はここに解散することになった。(中略)。武力は艦船兵器のみにあるのではなく、これを活用する『無形の実力』にある。『百発百中の一砲』は、百発一中の敵砲に対抗しうる…」

この文を起草したのは参謀の秋山真之と伝わるが、アメリカ大統領ルーズベルトはこの辞にいたく感銘を受け、英訳文を将兵に配布させたとのことである。



この「解散の辞」は、こう締めくくられる。

「古人曰く、勝ってカブトの緒を締めよと」










(了)






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出典:歴史人 2012年 01月号
「皇国の興廃、この一戦にあり 日本海海戦でバルチック艦隊を殲滅す!」

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