日本はロシアと戦う前から、「講和」を考えていた。
戦争する期間は1年間ぐらい、6分4分の勝ちで良し。
それが小国日本が大国ロシアとの決戦に踏みきれた理由でもあった。
その講和の絶好のチャンスとなったのが、日本海海戦(1905年5月)における日本軍の大勝利。ロシアが最後の望みを託していたバルチック艦隊が壊滅してしまったのだ。
しかし、それでも不十分だと考えたのがアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領。のちに日露間の講和を斡旋することになる彼は、金子堅太郎にこう言った。
「日本軍は今のところ、何もロシアの領土を占領していない」
そこで急遽、日本軍は「樺太」へと兵を進め、1ヶ月もかけずにアッという間に占領してしまう。
この樺太占領は、ロシアを講和のテーブルに着かせるためだけの、いわば「付け焼刃」であったという。
さて、いよいよポーツマスで日露の講和会議が行われることになるが、ロシアは不利な戦局におかれながらも、がぜん強気である。
ロシア皇帝ニコライ2世はあらかじめ、「1ルーブルの賠償金も、1ピチャージの土地も日本に渡してはならない」と全権大使ウィッテに言い含めていた。
有利な戦闘を展開していた日本とて、講和を急がなければならない理由がある。なにせ、日露戦争の戦費は当初予算の7倍にも膨れ上がっており、長期的な戦闘継続はほぼ不可能であった。
莫大な戦費による財政の大穴を埋めるため、ぜひにも賠償金が欲しい日本。それをビタ一文とて支払いたくないロシア。頑ななるウィッテは「ここには勝者も敗者もいない」と豪語する。
この絶望的な交渉はおよそ1ヶ月、10回の会議の末にようやく結論をみる。それは、アメリカの駐露大使の説得が奏功し、ロシア皇帝ニコライ2世が「樺太の南半分」を譲ることに渋々同意したからであった。しかし、賠償金を支払うことは断固として拒否した。
「賠償金はまったくなく、全島占領したはずの樺太も南半分だけ」
これが、大国ロシアに日本の勝利を認めさせた条件だった。
納得いかぬのは日本国民。日比谷公園に集った市民は暴徒化し、各所を襲撃して回った。この日露戦争における日本人の死傷者は22万7,000人(うち戦死者8万4,000人)。これほど犠牲甚大なる大戦争が、無に帰してしまったことに我慢がならなかった。
それでも、大国ロシアに勝利したという日本の「名声」は世界に鳴り響いた。
それまで未開国とされていた日本が、世界に「一等国」と認められるようになるのは、この日露戦争以後のことである。日本はアジア・中近東・アフリカなど「これからの国」に先駆けて、羨望と模範の的となったのだ。
しかしその一方で、欧米列強からは「警戒の目」で見られるようにもなる。とりわけ日米関係はこじれにこじれ、アメリカでの日本人移民排斥運動は激化、悪化の一途をひた走るのであった…。
出典:歴史人 2012年 01月号
「日本はいかにして日露戦争を終結させたのか?」
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