信玄(戦国大名・武田信玄)は意表を突いて、快川(禅僧・快川紹喜)の力量を試したことがあった。ある日のこと、居室にこもって座禅を組んでいる快川の背後に忍び寄り、いきなりその鼻先に白刃を閃かせたのである。
ところが快川は自若としてたじろがず、間合いをとっておもむろに一篇の偈(げ)を唱えた。
「紅炉上、一点の雪」
紅炉とは、火が赤々と燃えている炉のことを言う。そんな炉の上に一片の雪を置くと、たちまち跡形もなく溶けて消える。それと同じように、人間が本来の仏性に目覚めていれば、仮りに私欲や妄想にとらわれることがあっても、一瞬にして解け去ってしまうものだ。禅の悟りとはそういうものであり、この不動心を備えている限り、どうして自分の生死に拘泥し、不意の白刃に怯えたりすることがあろう。
信玄は、大悟徹底した禅の高僧に相応しい快川のこの応対を前にして、自分の軽率を悔い、虚心に頭を垂れたが、快川はさらに説いて信玄のより高度の自覚を促した。
「公のような国主の立場にある御仁が、軽々しく刀を弄ぶものではありませぬ。肝心なのは心の修養とわきまえ、今後みずから刀を取らぬようお心掛けあられよ」
信玄はこの訓戒を受けて、快川に傾倒することますます深く、その後はついに一度も刀を手にすることはなかったという。
時は下り、天正十年三月。
信玄亡き後の武田領内には、織田信長の下知を受けた軍勢が怒涛のように攻め入り、追い込まれた武田家当主・勝頼は天目山の麓で自害。
そのおよそ一ヶ月後、織田の軍勢は快川のいる恵林寺を包囲し、百余人らの僧を山門に追い上げた。それからほどなく、恵林寺山門は猛火に包まれ、凄惨な修羅場が現出することになる。織田軍が放った火は足元を這いのぼり、見る間に黒煙となって楼上を押し包んだ。
快川は座禅したまま、従容と火中に生命を断ったが、その寸前、次のような人口に膾炙する遺偈を、同座の百余人の衆僧の前で唱えたという。
安禅は必ずしも山水を須(もち)いず
心頭滅却すれば火も自(おのずか)ら涼し
抜粋:「名将の陰に名僧あり(百瀬明治)」
第三章「武田信玄の陰に快川紹喜」
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