討つ者も、討たるる者も土器(かわらけ)よ
砕けてあとは、もとの土くれ
この無常観そのもののような辞世の句を詠んだのは「三浦義同(みうら・よしあつ)」。通称「道寸(どうすん)」の法名で知られる三浦一族本宗家、最後の当主である。
「三浦一族」といえば、鎌倉時代を代表する御家人の一つであるが、この道寸が北条早雲に討たれたことによって、その本流の血筋は途絶えることとなる。
しかし、道寸ほどしぶとく城を守り続けた武将は、日本史上に例がない。
その籠城戦は、日本合戦史上最長の4年あまりにも及んだのだ。
三浦半島(神奈川県)の新井城に籠った道寸は、扇谷上杉家(おうぎがやつ・うえすぎけ)の援軍も待ちながら、ひたすらに耐えていた。しかし悲しいかな、その援軍はことごとく北条早雲によって撃退されてしまう。北条早雲といえば、戦国時代の黎明を告げることとなる男。相手が悪かったとしか言いようがない。
三方を海に囲まれた新井城は、攻めるのに難い分、出撃にも不向きであり、外部からの援軍なしに勝利の道はなかった。そして、その頼みの綱はプッツリと断たれた。
万策尽きた新井城。かくして、その命運は尽きることとなる。永正13年(1516)7月11日、最後の壮絶な戦いのなかで道寸は討ち死。ついに新井城は北条早雲の手に落ちる…。
落城後の焼け跡に立ち、道寸のクビを前にした北条早雲は何を思ったのであろうか。おそらくは早雲も、道寸の辞世の句を知っていたであろう。
”討つ者も、討たるる者も土器(かわらけ)よ。砕けてあとは、もとの土くれ…”
討たれた道寸は「かわらけ」のように砕け、もとの「土くれ」となった…。
小さな救いは、落城以前に逃れていた道寸の次男、のちの正木通綱が生き延びたことだ。その孫にあたる於万の方は徳川家康の側室となり、紀伊頼宣と水戸頼房を生んで、その血を徳川家内に残すこととなる。
一方、一時的な勝者となった北条早雲も、その子孫は天正18年(1590)、豊臣秀吉によって「討たれる者」となり、やはり「土くれ」に帰すこととなる。それは道寸が土くれと化してから74年後のことだった…。
出典:歴史人2012年1月号
「城を攻める 城を守る」
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