2018年5月9日水曜日

「時間がきたら死ぬだけです」【スマナサーラ】


From:
Samgha JAPAN(サンガジャパン) vol.29


話:アルボムッレ・スマナサーラ




私は、キリタラマヤのお寺に修行道場のビルを建てています。

最初にまず見積もりを取ったら、ものすごい金額でした。とてもそんなお金は出せません。ですから

「わたしは今、自分がもっているお金を全部つかって造ります。途中でお金がなくなったら、そこで完全に停止させます」

と、決めたのです。

「途中まで造って、残りはどうするんですか?」

と聞かれても、それは私に関係ありません。



3階建てのビルなのですが、予算のなかで骨組みと床スラブはできました。壁も造れました。今、タイルを貼っているところです。タイルをぜんぶ貼るために必要なお金は払っていますが、そこまでで資金がゼロになります。

そのときに「死ぬ前に造って終わりたい」などという非合理的な考えはもちません。「これ以上お金があったら、電気にもトイレの設計にも、まだまだ結構お金がかかるので、それはそれで大ごとだ」というふうに考えます。

合理的に考えれば、苦しみなないのです。「お金がもうなくなりました。そこから先は知りません。後の人が勝手にやってください」と淡々としているので、苦しみはありません。




サグラダ・ファミリアという教会にしてもそうでしょう? 

建築家ガウディは、彼ならではの仕事をしました。サグラダ・ファミリアの設計は、キリスト教というよりも「神は自然そのもの」というコンセプトなのです。自然体にある不思議な調和、不思議なバランス、奇妙なことも、びっくりすることも、すべて彼ならではの哲学でまとめたものです。

ガウディが死んでけっこう時がたっていますが、まだ建設中ですね。あと100年、200年、300年後ぐらい先に完成しても、「別にいいんじゃない?」という感じです。サグラダ・ファミリアは、資金があれば完成できるでしょう。しかし、時間はかかります。一年や二年で完成することはあり得ません。

しかし、誰も「なにが何でも、あと一年で完成させるぞ」などとは思わないので、一人も悩み苦しむことなく、あの教会がちょこっとずつ現れてきているのです。



もし、わたしが窓口のなかで対応する立場だったら、その仕事に従事する時間というものがありますね。たとえば、3時間その仕事をすることになっていたら、順番に、その窓口に並んで順番がきた人に対応してあげて、その人が終われば、次に並んでいる人に対応してあげて…と、それを3時間くり返していきます。

やがて時間がきたら、私はそこを立ち去るだけ。

「こんなにまだ並んでいる残りの人はどうするの?」

と聞かれても、それは私の管轄ではありません。わたしは自分に与えられた3時間で、たとえば300人に対応し、あと700人並んでいるなら、その700人は他の人が対応します。わたしが担当する世界とは別世界です。

つまりこれは、人生のたとえです。

私たちの希望が優先順位にしたがって並んでいます。その希望に一個一個対応してあげて、やがて時間切れになったら自分はあの世へいくのです。希望に一つずつ向き合っていたなら、「しっかり仕事をしました」という充実感をもちながら死ねます。

もし私が、希望に対応する時間のなかで、優先順位を無視して、後ろの人を先にやったりしたらどうなるでしょう。スリランカで、仮に窓口に人がたくさん並んでいて、後ろの人を先にやったら殴られます。大失敗ですし、違法でもあります。

実際のところ、われわれは毎日、違法な行為をしています。



希望というのは、なにか用事があって窓口に並んでいる人々だと考えるようにしてください。

たとえ、その窓口に一億人が並んで順番を待っていたとしても関係ありません。窓口の担当として、希望を一つずつ一つずつ解決していくだけ。

そこで自分の時間が切れたら、死ぬだけです。自分が死ぬときに、まだ無限の希望たちが並んでいても、なんの意味もありません。希望たちは「わたしの希望」です。「わたし」がいなくなったら、希望たちも自動的になくなります。

どんな希望も、自分が生きているならば成り立つ、一時的な希望です。ですから希望というのは、全部どうってことはないものなのです。






From:
Samgha JAPAN(サンガジャパン) vol.29

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