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2018年4月26日木曜日

中村元とは?【植木雅俊】



From:
仏教学者 中村元 求道のことばと思想 
角川選書 – 2014/7/24 植木 雅俊 (著)





はじめに


中村元(はじめ)の肩書は、しばしば「仏教学者」とされている。確かに、ずば抜けた仏教学者であることに間違いないが、それには収まりきらないところがあまりにも多い。「インド哲学者」だとしても同じことだ。

中村は、卓越した仏教学とインド哲学の研究に基づいて、東西の思想・哲学を俯瞰し、最終的には普遍的思想史の構築の必要性を訴え、死ぬ間際まで自らそれに取り組んだ思想家であり、哲学者であったといえよう。


博士論文では、サンスクリット語で書かれたアビダルマや、大乗仏典、ジャイナ教や、バラモン教の文献、さらにはギリシア語の文献や、漢訳、およびチベット語訳の仏典に引用された断片から、ヴェーダーンタ哲学史の千年にわたる空白部分を復元した。インド人の学者たちをも驚かせるほどの離れ業を成し遂げた。

サンスクリット語、パーリ語、チベット語、英語、ドイツ語、ギリシア語、フランス語に精通した語学の天才にしてはじめて可能なことであった。

その論文は、六千枚以上というあまりにも膨大な量で、弟に手伝ってもらってリヤカーで東京帝国大学に運び込んだ。指導教授の宇井伯寿(うい・はくじゅ、1882~1963)は、思わず「読むのが大変だ」と漏らしたという。

その論文によって、文学博士といえば、70歳、80歳になって受けるものと言われていた当時、30歳の若さで文学博士の学位を取得した。





仏教学の分野では、難解と言われた仏教を、いかに平易で分かりやすいものにするかに努めた。また、神格化され、人間離れしたものとされたゴータマ・ブッダから、歴史上の人物としての「人間ブッダ」の実像に迫り、最初期の仏教の実態を浮き彫りにした。

それによって、仏教は本来、迷信や権威主義とは無縁で、道理にかなったものであったことを明らかにした。インドの釈尊の時代から「2,500年」「5,000キロ」という時空を隔てた今日の日本にあって、”壮大な伝言ゲーム”を経て生じた誤解や曲解を正すことに専念したともいえよう。

中村は、インドの現地を何度も訪れ、インド人の生活、風土、自然などを踏まえ、サンスクリット語や、パーリ語などインドの原典に立ち返って考察した。インドに行こうとも思わなかった西洋のインド学者たちとは全く異なる態度であった。





「中村元選集」(旧版)全23巻の完結で文化勲章を受章したかと思えば、それから11年後には決定版「中村元選集」全40巻の出版に取りかかるというように、とどまることのないあくなき探求の連続であった。

19年がかりで仕上げた200字詰め原稿用紙4万枚が行方不明になっても、不死鳥のごとく作業をやり直して8年がかりで『佛教語大辞典』を完成させ、毎日出版文化賞を受章した。

さらに、その『大辞典』の改訂のためのカード10万枚を残して亡くなり、それをもとに『広説佛教語大辞典』が没後2年にして出版されたことなど、驚嘆すべきことは枚挙にいとまがない。

執筆した著書・論文の数は、分かっているだけでも邦文で1,486点、欧文では論文が284点、著書が10数冊で、計1,480点余というおびただしい数である。





西洋中心・アジア蔑視の偏見と闘い、東西の思想を比較・吟味して普遍的思想史の構築に専念した。それは、異文化間の相互理解と世界平和に欠かせぬことだと思っていたからだ。

これほどの業績と、研究分野が多岐にわたっていることで、妬まれることや、「中村は気が狂ったのではないか」と非難されることも多かったが、偏狭なアカデミズムやセクショナリズム(縄張り意識)と生涯、闘い続けた。

常に「分からないことが学問的なのではなく、だれにでも分かりやすことが学問的なのです」と語り、平易な言葉で仏典を現代語訳し、「人間ブッダ」の実像を浮き彫りにしたことに対して、「厳かさがない」「経典としての荘重さがない」などと非難されたが、中村はこうした言われなき批判とも闘っていた。

「闘う」と言っても、それは仏教でいう「忍辱(にんにく)」の姿勢を貫くもので、中村は、だれに対しても和顔愛語(わげんあいご)であった。





86年の生涯を終え、その告別式で洛子(らくこ)夫人は、「主人は、何よりも好きな勉強を生涯続けられて幸せだったと思います」と語った。

その言葉通り、亡くなる前の昏睡状態が続く中、中村の口から、「ただ今から講義を始めます。体の具合が悪いので、このままで失礼します」という言葉が出てきた。昏睡状態のまま、淡々とした口調で45分にわたって講義し、「時間がまいりましたので、これで終わります。具合が悪いのでこのままで失礼しますが、何か質問はございますか?」と締めくくったという。その講義の最初と最後の言葉は、筆者が長年拝聴してきた東方学院での中村の講義そのままであった。

この昏睡状態での文字通りの”最終講義”の席にいたのは訪問看護の看護師一人であった。専門用語がたくさん出てきて理解できなかったというが、この渾身の”講義”に中村の学問人生のすべてが凝縮されているように思えてならない。





日本は、仏教国だと言われるが、6世紀の仏教伝来以来、漢訳仏典を音読みしてきたため、多くの人が経典に何が書かれているかも分からないままできた。

そのため、仏教が呪術的で迷信じみたものとして、さらには権威主義的に語られることがなかったとは言えない。人々は、本来の仏教の教えを知りたいと思っても、なかなかそれに触れる機会が得られなかった。

中村は、釈尊の生の言葉に近い原始仏典を平易な言葉で現代語訳し、本来の仏教が「真の自己に目覚めること」を目指していたことや、いかに生きるかを説いたものであったこと、釈尊自身が難解な言葉ではなく、平易な言葉で教えを説いていたことを、分かりやすい言葉で明らかにしてくれた。


東日本大震災という未曾有の大災害を目の当たりにして、豊かさの反面、生きることの根底的な意味が問われている今日、真実の仏教を知りたいと思う人たちにとって、中村の業績は時とともにますます輝きを放つであろう。

本書では、中村元の生涯と業績を辿りながら、その思想の「輪郭」と「核心」を明らかにしていきたいと思う。




From:
仏教学者 中村元 求道のことばと思想 
角川選書 – 2014/7/24 植木 雅俊 (著)

2017年4月23日日曜日

良いものはカタツムリ[ガンディー]





良いものはカタツムリのように進むのです。

マハトマ・ガンディー『真の独立への道』







無畏の勇者[ガンディー]




勇者とは、剣や銃の類(たぐい)ではなく、無畏(むい)をもって武装した人のことです。

恐怖にとりつかれた者たちだけが、剣や銃で身がまえるのです。

マハトマ・ガンディー





理想の状況を言えば、

太陽がわたしたちの唯一の料理人であるべきです。

マハトマ・ガンディー





わたしたちには、自分が必要としないものは、一物たりとも受けとってはなりません。 
要(い)りもしない果物をもらったり、必要以上に多量にもらうのは、盗みです。

マハトマ・ガンディー



2015年11月2日月曜日

絶世の美女シリマー、その遺体 [スマナサーラ]



話:アルボムッレ スマナサーラ
あべこべ感覚―役立つ初期仏教法話7



…


お釈迦さまがいらした時代、インドのコーサラ国にあまりにもすごい美人がいました。名はシリマー(Sirima)といいました。

人々は、一日彼女と生活するために、たとえば千両のような高額なお金を払わなくてはいけない決まりになっていました。しかし、そんなに払っても一日だけです。その一日で、彼女は料理をつくったり、歌ったり、踊ったり、なんでもしてくれます。ですから、たとえすごく高い料金でも、一日だけ絶世の美女と一緒に生活できることにすごく喜びを感じます。それほど美しかったのです。

本当は、誰もが何度も高いお金を払って、一緒に過ごしてもらいたいと思うのですが、一般人にはとても払える値段ではありません。わざとそういう値段設定にしています。王様や億万長者やほんの数人にしか、彼女を呼んでお祭りをすることはできません。



さて、そんなとき、ある人が出家しました。仏道の世界に入ったのです。仏道の世界に入ったばかりのときに

「あの絶世の美女シリマーは、ブッダの信者さんだ」

と耳にしました。出家したばかりの人は、

「あの有名人も仏教徒ですか」

と、とてもびっくりしました。しかし、他のお坊さんたちにとっては、シリマーもただ一人の信者でしかありません。

「あぁシリマーさんも、ときどき来ます」

という程度です。シリマーさんも来るし、国王も来るし、偉い○○さんも来るしで、なにも特別なことはありません。国王が来てもお坊さんたちは、いきなり立ち上がってお辞儀をしたり、瞑想をやめたりなど、そんなことは全然ありません。たとえ国王が来ても、国王のほうが修行の迷惑にならないように、皆を避けながらお釈迦さまのところに行きます。仏教の世界は、そういう世界です。人間は平等です。

この人は出家したばかりで、まだまだ成長していないし、だらしない状態でした。そして、絶世の美女と名高いシリマーは、他のお金持ちの人と当番で、お釈迦さまと比丘たちにお布施をしていました。たくさんお坊さんたちがいますからね。彼女は毎日、何人かにお布施をしていたのです。



お坊さんが、いつも300人や500人ぐらいはいました。毎日、食事をお布施している人のところに、お坊さんが振り分けられます。

「この10人のお坊さんは、あちらに行きなさい」
「この5人のお坊さんは、あの家に行きなさい」
「この20人のお坊さんは、あちらに行きなさい」

というように、認定されているお坊さんが行く先を決めます。そのお坊さんに逆らってはいけないと、これも戒律で決められています。そこに行ってもらうと決めたその人の判断は絶対で、逆らうことはできません。言われたところに行くしかありません。



シリマーのところに行くお坊さんも、そのように決められます。判断するお坊さんも、平等にやらなくてはなりません。個人的な好みでやってはいけないし、人の顔色を見てやってはなりません。

たとえば、お布施をする在家の人々に

「サーリプッタ尊者に来てほしいですか?」

と聞けば、みんな一斉に

「ぜひ家に来てください」

と言うでしょう。サーリプッタ尊者は一人ですから、一日一ヶ所にしか行けません。

「うちこそがサーリプッタ尊者にお布施したかった」

などと、在家で文句ばかりがあがったり、争いが起こってはたまりません。ですから、不満を言うのは在家も禁止。まぁ、空いていれば要求は聞いてあげますが、空いていなかったら、どうしようもない、担当のお坊さんの指示に文句も言わずに従うことになっています。



昔のお坊さんたちは、個人的に接待を受けるのは遠慮していました。リクエストがあっても

「サンガ(僧団)に注文を出してください」

と答えます。

「サンガが決めて、誰かが行くでしょう」

という方法をとっていました。そのほうが公平で安心です。

お布施を受けるお坊さんは、毎日クジを引きます。毎日、お坊さんたちはそのクジを取り、そこに誰の家かと書いてありますから、そこに行きます。このクジの結果は、誰にも文句を言うことができない決まりです。



あるとき、例の出家したばかりのお坊さんに、シリマーの家に行くクジが当たりました。悪いことに、という感じです。まだ修行をはじめたばかりでだらしないので、次の日から夜も

「なんてツイていることか」

などと考えてしまいます。ただで見られますからね。しかしそのときは、彼女はもうそんなに若くありませんでした。老人とまではいきませんが、若くて元気はつらつで、皆を喜ばせるほどの年齢ではありませんでした。

シリマーは、仏教の信者になってからはお布施や瞑想で忙しく、かつて一日千両ももらっていたおかげで、お金の不自由はありませんでした。ですからシリマー自身、美しさの見返りに誰かに一日千両をもらうなどということは、どうでもよくなっていました。



さて、例のお坊さんがシリマーの家にお布施をいただきに行ったとき、彼女は発作を起こしました。発作を起こして、体がたいへんなことになりました。いきなり目が変なところに向いてしまうし、口が曲がる、よだれが出る、身体が震える、とてもひどい状態です。なんの美しさのかけらもありません。

しかし、発作で倒れても彼女は、お布施だけはちゃんと召使いに頼んでやらせました。そして、お坊さんたちに挨拶をする時間になったら、彼女は

「お礼をしに行かなくては」

と必死です。毎日やっていることですから、発作で倒れたその日も

「私をお坊さんたちのところに運びなさい」

と、召使いに命じました。皆、ぼろぼろになっている彼女をなんとかして、お坊さんたちが托鉢に来たところに運んで行きました。すると、彼女はすごく両手が震えるのに、震えた手できちんと礼をしました。

そのあとはさすがに家来が家の中に運んで、寝かしておきました。そして、その日、シリマーは亡くなったのです。ですから、ふつうのちょっとした痙攣ではなくて、心臓発作か脳出血などを起こしたのでしょうね。



礼のお坊さんが見たのは、もう、ぼろぼろで醜くなって瞬間のシリマーでした。シリマーの人生でいちばんカッコ悪い、最悪の姿です。それなのに、修行はまだまだで捏造は達人ですから、いちばん醜い姿を見ても

「この方は、そうとう美人だ」

と思ったのです。

「体格や肌の色など、元気なときは、さぞや素晴らしかったでしょう」

と思ってしまいました。実際に見たのは最悪最低、いちばん身体の形も悪いときです。なんの見栄の一かけらもない、醜い姿。それなのに

「それでも美人だ」

と思ったというのですから、すごい顛倒です。



そのお坊さんは、本気になってしまいました。そのままお寺に帰って寝込んでしまいました。お坊さんたちがいろいろなことを言っても、ご飯も食べません。お釈迦さまはその様子を知り、

「この人は相当なショックを与えなければ治らない」

と思いました。お釈迦さまは

「放っておけ」

とおっしゃって、国王に

「葬式は中止にしてください」

と、メッセージを送りました。シリマーの死体は国の財産でしたから、国葬です。お釈迦さまに言われて国王は

「困ったなぁ」

と思いながらも言われた通り、葬式をとりやめました。現代人とちがって、昔は国王であっても政府であっても、お釈迦さまに言われたらその通りに従うのが当たり前でした。お釈迦さまは

「遺体は、そのまま放っておきなさい」

とおっしゃったので、国王はその通りにしました。



お釈迦さまから国王に

「では、そろそろ葬式を出してもいいでしょう」

と連絡が来たのは、一週間もたってからのことでした。遺体はもちろん腐っていました。膨らんだり、膿が出て、ものすごくひどい臭いが出はじめていました。

お釈迦さまは

「では葬式をやりましょう。わたしも行きます」

とおっしゃって、王様の命令で、皆を集めるように伝えました。町の人々や彼女を知っている人々を皆、集めたのです。



お釈迦さまは、比丘たちと葬式に行く際に、アーナンダ尊者に

「あの比丘にも一緒に行きましょうと言いなさい」

と伝えました。そこでアーナンダ尊者が、礼のお坊さんに

「お釈迦さまが、お葬式にはあなたも一緒に行きなさいと言っています」

と言うと、

「あぁ、そうですか。シリマーさんのお葬式ですね。わかりました。行きます」

と答えて、一週間もご飯を食べていなかったのに何のこともなく、さっと起き上がって出かけたのです。一緒に行くとはいっても、お釈迦さまはメッセージを送っただけで、その人はお坊さんのランクでは最下位ですから、後ろにいるだけです。おそらくお釈迦さまの顔を見ることもなかったでしょう。



お釈迦さまと国王が会話します。

「彼女は若い時代には、一日どれくらいの料金をとっていたのですか?」

とお釈迦さまが質問をし、王様は

「一日、千両です」

と教えます。それを聞いてお釈迦さまは

「では王様、これ(シリマーの遺体)を競(せ)りに出してください」

と指示しました。

「千両で買って持っていってくださいと、競りに出しましょう。前は一日だけでしたが、今は千両出せばずっと一緒にいられますから、たいへんお得です」

とおっしゃいました。



国王はお釈迦さまのおっしゃる通りに、職人さんに頼んで、シリマーの遺体を競りに出しました。

「彼女は、前に千両払ってもたった一日だけしか一緒にいられませんでしたが、今度は千両で権利ぜんぶを与えます。ずっと一緒にいられます」

と条件をはっきり、皆に示しました。その上で

「千両で買いたい人は、どなたでしょうか?」

と聞くと、その場にお金持ちはいっぱいいましたが、誰も手を上げません。お釈迦さまは顔色ひとつ変えずに、

「どうやら売れないみたいだねぇ。じゃあ、値段を下げてみましょう」

とおっしゃって、値段を下げて競りを続けさせました。



値段を下げても、下げても、誰も手を上げませんでした。最後には日本式に言うとたった一円になってしまいました。お釈迦さまは

「あれまぁ、一円でも買わないんだね」

とおっしゃって、

「では、誰か欲しい人にでもあげなさい」

と指示しました。そこで最後に

「では、ただでもらう人は、どなたかいるでしょうか?」

と尋ねてみました。誰も手を上げません。そこでとうとう、お釈迦さまが

「誰もいない? そう、誰もいないでしょうね」

とおっしゃって、

「そんなものですよ、この身体は。こんなものに執着するのは、愚か者以外、誰でもありません。肉体は不浄なものです。愚か者が、誰かにすごい価値があると思い込んだとしても、しょせんは腐ってしまう肉体ですよ」

と厳しく説法しました。そうして、お葬式に参加して帰ったのです。

例のお坊さんは、その説法を聞いてすっかり病気が治って、悟りに達しました。


…





引用:
アルボムッレ・スマナサーラ
『あべこべ感覚―役立つ初期仏教法話7 (サンガ新書)』




2014年10月20日月曜日

幸せの両面 [足立大進]



〜話:足立大進〜


 心の幸せについて、仏教ではこんな面白い話がある。


 昔、インドに非常に貧しい青年がいました。青年は、町外れの見るに耐えないあばら屋に住んでいました。不幸のどん底に居た青年は「幸せになりたい」と願いを立てます。「幸せになるには、まず美しい妻を娶りたい」、こう考えた青年は妻を迎えるために一心不乱に仕事をし、お金を稼ぎました。

 ところが、お金というものは追っかけて稼ごうとすると、なかなか溜まらないものです。そこで青年は一計を案じ、古道具屋で幸せの女神像を買って来てお祀りし、「幸せになるように」と一生懸命に拝んだ。ところが、二年経っても三年経っても、幸せになれません。青年はとうとう匙(さじ)を投げて、「もう諦めた。私は明日死のう」と考え、床に就きます。

 その日、夜もだいぶ深まった頃、トントンと戸を叩く音がします。「空耳かなぁ、それとも狐が狸かなぁ」と思いながら、ガタピシの戸を苦労して開けました。すると、そこには春の朧月のなか、花の精かと思うような美しい女性が立っています。青年が「何ですか?」と尋ねると、女性は「あなたのところへ伺ったんです」と言います。「お門(かど)違いではありませんか。私の家は、あなたが起こしになるようなところじゃありませんよ」と言うと、美しい女性はほほえみながら、「いいえ、始めからお宅を目指して参りました。私は、あなたが日ごろ祈り続けていらっしゃる幸せの女神でございます」と答えます。青年は心の中で、やったーと喜び、「どうぞどうぞ」と女性を招き入れました。

 すると、幸せの女神の後ろからもう一人、別の女性がついてきます。「お伴がいらっしゃるんですか」と青年が尋ねると、女神は「妹と一緒に参りました」と言います。女神さま一人でも充分なのに、二人です。青年は大喜びで、現代であればガッツポーズをしながら、「ささ、どうぞどうぞ」と言って、二人を招き入れました。


 さて、行灯(あんどん)に火を入れて、二人の顔を見てみますと、姉さんのほうはとびっきり美しい。しかし、妹を見てびっくりしました。醜女(しこめ)と言いますが、言いようもないほど醜い女性でした。「本当に妹さんなんですか」と訊くと、女神は「確かに実の妹でございます。不幸の女神で黒闇女(こくあんにょ)、黒耳(こくに)と申します」と言います。

 青年は、幸せの女神はいいけれど、不幸の女神は困ると考え、「お姉さんだけ残っていただいて、妹さんはお帰りくださいませんか」とお願いした。そうしましたら、姉さんは「それは無理な注文です。私たちはいつも二人一緒でございます。二人一緒に置いて頂けないなら、帰らせていただきます」と言います。結局、青年の家には、吉祥女(きっしょうにょ)という幸せの女神と、黒闇女(こくあんにょ)という不幸せの女神が二人一緒に居ることになりました。


 私たちが日常生活の中で幸せだと感じているときも、必ず反対のものがそこにくっついています。幸せと不幸せは背中合わせです。すべての物事に、ただ一面ということはありません。常に相対立するものが存在する。一見、幸せそうに見える人にも、何かしら悲しみや苦労があるのです。どちらが良い悪いではなく、一面にとらわれず、両面を見ることこそ大切なのです。

…





出典:『即今只今』足立大進



2014年3月11日火曜日

最も完全な構成をなす『サンスクリットの50文字』



 サンスクリット語のアルファベットは、その構成が理想的で、”50の文字”から成り、その各々の発音は一定不変である。

 ジョージ・バーナード・ショーは、例のウィットに富んだ調子で、ラテン語を基本にした英語のアルファベットの表音上の不完全さをいみじくも指摘し、「そこでは26の文字が、音の表現を果たしきれずにもがいている」と述べている。

 彼はまた、「英語に新しいアルファベットを導入するためなら、いかなる文化的闘争も辞さない」と強調して、42文字から成る新しいアルファベットの採用を提案している(Wilson "Miraculous Birth of Language" の序文)。そうなれば、50文字で構成されている完全なサンスクリット語の表音体系にかなり近づくことになる。



 インダス河の渓谷から発見された印形は、サンスクリットのアルファベットがセム語から取り入れられた、とする多くの学者たちの説をくつがえそうとしている。最近、モヘンジョダロとハラッパーにおいて、2〜3の古代ヒンズー都市の遺跡が発掘されたが、それらは、われわれがわずかに想像できるにすぎない有史以前のころに、インドの土地にすぐれた文化の歴史が存在していたことを物語っている。

 もし大昔、この地球上にきわめて進んだ文明時代が存在した、というヒンズーの所説が正しいとすれば、世界で最も古い言葉であるサンスクリットが”最も完全な構成”をなしているという理由もうなずけることになる。

 アジア協会の創立者、ウィリアム・ジョーンズ氏は、「サンスクリットの起源が何であれ、それはまったく見事な構成をなしており、ギリシャ語よりも完全で、ラテン語よりも豊富で、また、そのいずれよりも優美に洗練されている」と語っている。



 サンスクリットの語源”Sanskrita”は、”洗練された、完全な”の意。サンスクリットは、インドやヨーロッパのどの言語よりも古いとされる。

 そのアルファベットの字体は”デーヴァナーガリ(神のすみか)”と呼ばれている。古代インドの偉大な哲学者パーニニは、サンスクリットのもつ数学的、心理的完全さを賞賛して「わが文法を知る者は、神を知る者である」と言っている。

 言語の源をあくまで追求していけば、最後には、宇宙のすべてを知ることになるのかもしれない。




引用:『あるヨギの自叙伝』訳注より


2014年3月10日月曜日

写真に写らぬ大師のおからだ [ヨガナンダ]



話:パラマハンサ・ヨガナンダ

 大師(ラヒリ・マハサヤ)は、写真を撮られるのがひどくお嫌いのようであった。あるとき、大師の反対を押し切って、ロイ氏を含む何人かの弟子たち(devotees)が、大師を囲んで写真を撮った。

 ところが、それを現像してみると、驚いたことに、弟子たちの姿はみなはっきりと写っているのに、ちょうど中央の、ラヒリ・マハサヤ大師の姿の写っているべき場所だけ空白(a blank space)になっていた。この現象は広く人々の話題になった。

 弟子の一人でガンガ・ダールという、名の知られた写真家は、これを聞くと、いかに大師の姿がとらえにくくても、自分なら必ず写して見せると公言した。翌朝、彼はカメラを携えてやって来た。大師はつい立てを背にして、瞑想の姿勢(lotus posture)で木のベンチにすわっておられた。ガンガ・ダールは、あらゆる周到な準備をして、なんと12枚も撮影した。

 だが、現像の結果は同じだった。そのどれにも、木のベンチとつい立ては写っていたが、大師の姿(master's form)は、またしても消えていた。すっかり面目を失ったガンガ・ダールは、悄然として涙を流しながらラヒリ・マハサヤ大師の前に出た。大師が、長い沈黙を破って彼に意味深い言葉をかけられたのは、かれこれ数時間もたってからであった。

「わたしは霊(spirit)だ。お前のカメラは偏在の見えざる霊(the omnipresent invisible)をも写すことができるのかね?」

「いいえ、それは存じております、聖なる大師様。しかし私は、神の宮(the bodily temple)としてのあなたのおからだの写真がどうしても欲しいのでございます。私は、きょうまで未熟のため、そのおからだがかくも完全な霊の宮であることを知らなかったのでございます」

「では、あすの朝来なさい。写るようにしてやろう」

 翌朝、この写真家は、再びカメラの焦点を合わせた。聖なるみ姿(the sacred figure)は、今度は神秘の幕(mysterious imperceptibility)に遮られることなく、くっきりと原板に写った。大師が写真の撮影に応じられたのは、私の知るかぎり、後にも先にもこの時だけである。

…



出典:『あるヨギの自叙伝』パラマハンサ・ヨガナンダ


乳児のころの記憶 [パラマハンサ・ヨガナンダ]


話:パラマハンサ・ヨガナンダ


 私は、乳児のころに味わわされた"やりきれない屈辱感(the helpless humiliations)"を、今でも覚えている。

 まだ歩くこともできず、思う事を自由に表現することのできなかった私は、いらだたしさによく腹を立てた。そして、肉体の不自由さ(my bodily impotence)を意識するにつれて、祈りの本能(prayerful surges)が大波のように湧いてきた。私の心の中には、強烈な感情を表現しようとするいろいろな言語が入り乱れた。こうした不自由さから来る内的混乱(inward confusion)を味わいながらも、私の耳はしだいに、まわりの人たちの話すベンガル語に慣れていった。

 乳児の心の中には、おもちゃや、たわいもない遊びに熱中するほかに、大人には想像も及ばぬ領域(the beguiling scope)があるのである。心理的不満と肉体的不自由さは、しばしば私を強情な泣き虫(obstinate crying-spells)にした。家族たちが私のかんしゃく(distress)をもてあまして途方に暮れていたのを、今でも思い出すことができる。

 乳児のころの記憶(memories of infancy)を断片的ながらもはっきりともっている例は、珍しいことではない。私は方々の国々に旅をして、誠実な人たちがそのころの思い出を語るのをよく耳にした。

…



 引用:『あるヨギの自叙伝』 パラマハンサ・ヨガナンダ


2013年6月4日火曜日

パール判事の嘆いた「東京裁判」




第二次世界大戦の敗戦後、日本は「勝ち組11カ国」から裁かれることとなった。

いわゆる「東京裁判(極東軍事裁判)」

だが「勝者が必ず正義にまわり、敗者が悪者とされる」通り、この裁判における「国際法」はじつに虚しいものであった。



この東京裁判の全裁判官中、「最も国際法に長じた学者」といわれていたインド代表の「パール判事」。彼は勝ち組の一員であるのに関わらず、この裁判の虚しさを嘆いた。

「東京裁判は、裁判の名を借りた『復讐』である。法的根拠もないのに日本を『侵略者』と決め付け、多数の個人を処刑することは『20世紀文明の恥辱』である…!」







国際法を無視した占領軍は、日本国民の感情を逆ナデするかのように、A級戦犯とされる28名を昭和天皇の誕生日に捕らえた。

そして、7名の絞首刑の執行された日は、今上陛下の誕生日であった…。










出典:致知2013年7月号
「日本国の四月二十八日 中條高徳」

2013年2月21日木曜日

「天国」には逃げぬ(ブッダ)



「天国」というのは、「逃げ場所」なのか?

少なくともブッダは、そうだと考えた。



ブッダの生きた時代のインドでは、「バラモン教」が広く知られていた。

その聖典によると、こう説かれていた。

この宇宙は梵天が中心になっていて、人は死んで火葬に付されると、その魂は煙に乗ってまず「月」の方へと上っていく。そして、月からさらに神の道をたどれば、「天国」へ生まれ変わることができる、と。



しかしブッダは、こうした天国志向を「逃避主義」として、真っ向から批判した。

そんな理想主義は捨ててしまえ。その代わりに、苦しみのこの現実世界にこそ、「楽土(天国)」を建設せよ、そうブッダは教えたのであった。






出典:大法輪 2013年 03月号 [雑誌]
「仏教は天国に生まれることを目指す宗教?」

2012年10月22日月曜日

3日に一度「朝カレー」のススメ


日本の「カレー」には、少ないもので15種類、多いものになると30種類もの「スパイス」がブレンドされているとのこと。

本場インドでは、「裕福な家庭でもスパイスはせいぜい5種類ほど」と言うのだから、日本のカレーはスパイスのチャンコ鍋。



そのスパイス豊富なカレーで、必ず使われているスパイスが「ターメリック」。ウコン(鬱金)とも呼ばれるこのスパイスは、カレーの黄色そのものである。

ターメリックに含まれる「クルクミン」には、活性酸素を抑制するという力が知られている。活性酸素というのは、多くなり過ぎると細胞の遺伝子を傷つけてしまう困り者である。傷ついた遺伝子はガン化する恐れもある。

抗酸化作用を持つというクルクミンは、活性酸素の酸化力を抑え込む。そして、解毒酵素を増やして、不要なものを体外へと排出させてしまう。その効果は72時間(丸3日)持続するとのことである。



なるほど、極端な話、3日に一度カレーを食すれば、それで身体の防衛機能が高まるということか。

そして少々意外なのが、「朝カレー」が効果的だということ。カレーのスパイス刺激は「脳の血流」を活性化させることが知られており、おかゆ摂取時と比べて、およそ2〜4%も脳血流量が増えるのだそうだ。つまり、寝起き早々、頭の回転が早くなる。



3日に一度、朝カレー。

そんな健康習慣もあったのか。





出典:致知2012年11月号
「朝カレーで一日を元気に過ごす インド人もびっくりの健康効果」