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2018年5月1日火曜日

π/4(よんぶんのパイ)の法則【小宮山宏】


話:小宮山宏


…

東大図書館では、図書の購買を効率化しようと、集中購入システムを導入した。

その結果、大学は人手が省ける。本屋さんも、これまで多数の研究室を相手にしていたのが、集中管理室とだけ決済を行えばよくなるから、値引きすることができるわけだ。

しかし、たったこれだけのことでも、大きな組織の中で実行に移すのは大変なことだ。うまくやるコツは、全部を集中化するなどと考えず、80%くらいを狙うことだ。

教員の中には、古文書など特殊な本を特殊な本屋さんから買っているなど、さまざまな事情がある。また、理由はよく分からないが、なぜか反対していて説得するのがとても疲れるといった人も組織には必ずいるものだ。

そういうところを除いてスタートし、やがて入ってくるのを待つ。つまり、こっちの水は甘いよと見せるのである。


正方形とそれに内接する円の面積の比がπ/4であって、約0.8である。正方形を対象にしても、実行には円の面積あたりが狙い所である。これが、π/4(よんぶんのパイ)の法則である。

…




From:
『知識の構造化』
小宮山宏

2013年5月23日木曜日

書籍「素数に憑かれた人たち 〜リーマン予想への挑戦〜」



1+1+1+1+1+1+1……= −1/2

などと言われたら、ビックリしないだろうか?

「でも、これは真実だ(多少表記の仕方に問題があるにしても)」



この不思議は、数学史上最大の未解決問題「リーマン予想」と密接に関連するものだ。

その秘密が、本書にある。







本書は「知的であり、かつ好奇心もあるが、数学者ではない」という読者を対象にしている、とプロローグには記されている。

ただ、しょっぱなからlogが顔を出したりと、「頭の芯が疲れる」のも事実である。



それでも「素数」の魅力は色褪せない。

「素数に隠されたさまざまな意味を、まったく知らずに死んでしまったら、もったいないです」

そんなレビューも投稿されている。






出典:日経 サイエンス 2012年 05月号 [雑誌]
「大学1年生に薦めたい本 川端裕人」


情緒をもった「純粋な日本人」、岡潔




「人は皆、不死である。そのことがわからずに説明できることは何もない」

「岡潔(おか・きよし)」、直筆の色紙にはそうある。







彼は「数学者」であり、そして「純粋な日本人」であった。

「僕は、論理も計算もない数学をやってみたい」と語っていた三高時代。表面的なことを追いかけるだけでは、答えが見えてこないと感じていた。

フランスに留学すると、「幾何・代数・解析が三位一体となった美しい理論」を見事に展開。

その強烈な異彩を放つ業績から、西欧の数学界ではそれがたった一人の数学者によるものとは当初信じられずに、「岡潔」というのは数学者集団によるペンネームであろうと思われていたという。



大学の教壇では「日本民族」を講義したという岡潔。

日本は「自他弁別・合理主義・物質主義」によって「無明」に位置してしまっていると述べている。

「無明」というが仏教用語である通り、岡は仏教に帰依していた。



「真善美妙を大切にせよ」と言った岡。

真には「知」、善には「意」、美には「情」が対応し、それらを「妙」が統括すると考えた。

日本民族は「知」が不得手であるとし、その代わりに「情」を大切にせよ、「日本民族は人類の中でもとりわけ『情の民族』だ」と述べている。



数学者としての岡は、まさにその「情」をもって数学的世界を創造したのであった。

数学であれ仏教であれ、岡にとってそれは表裏一体のものであったという。







そんな彼の理想は、日本の「神代」にあった。

素戔嗚尊(スサノオ)の「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣つくる その八重垣を」という歌に代表されるのように、神代の日本には「矛盾のない知情意」があったのだ、と岡は言う。

日本に「無明」がはじまるのは、仏教伝来とともに「氏姓制度」が入ってきてから。自分と他人を隔てる「氏」が悪習となった、と岡は考えていた。



その無明は時代が下るとともに、広く広く広まっていく。

平安時代末期の僧・西行の「心無き 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ」は、美しくも弱々しく

武士の世となった源実朝の「箱根路を わが越え来れば 伊豆の海や 沖の小島に 波の寄る見ゆ」で、すっかり無明に呑まれてしまった、と岡は言う。

江戸時代の松尾芭蕉は、辛うじて神代の「情」を保ったものの、やがて不得手の「知」が暴走したがために、明治時代以降、日本民族は戦争漬けとなってしまったのだ、と岡は言う。



「氏」が日本に入り、自分と他人の区別が明確になり、それは「自他の対立」を生むことになった。「氏」という悪習に取り憑かれた日本民族は「小我」になってしまったと、岡は嘆く。

その「小我」から脱そうとしたのが「武士道」であり「大和魂」である。さらに進めば、自他を対立させずに衆善奉行できる「真我」や「大我」につながる、と岡は言う。



外側に参照する基準はない。唯一の基準は心の中に宿っており、日本民族にとってそれは「情(情緒)」だと、岡は言っている。

その情緒を大切にすることで、分別智と無分別智が働かせ、その上で「知」を身につけるべきだ、と岡は提唱している。

それが「日本の心」だ、と。







出典:Wikipedia「岡潔」


2012年9月15日土曜日

数学は「発明」されたのか、それとも「発見」されたのか?


もし、この世の「知性」が人間ではなく、「太平洋の深くにたった一匹で漂っているクラゲ」に宿っていたとしたら?

はたして「数の概念」が生まれ得たであろうか。数える対象ももたぬクラゲの知性に…。





このクラゲの”たとえ”は、「数学は『発明』されたのか、『発見』されたのか」という問いに基づくものである。人類は数千年間もこの問いの答えを見いだせずにいる。

「発明」となれば、「数」は人間が生み出した「道具」となるし、「発見」となれば、「数」は人間とは関わりのない「独立した存在」、言うなれば「神がつくり給うたもの」となる。



少なくとも、数学は人間の「経験」とは独立した「思考の産物」であると言うことはできる。数それ自体が実体を持つわけでもなければ、触れるものでもない。しかしそれでも、数学は現実世界を簡明かつ正確に表現する。

たとえば、量子電磁力学を用いて計算した電子の磁気モーメントの「理論値」は、最新技術によって「実験的に測定した値」と、1兆分のいくつというわずかな違いで一致していた(1.99115965218073)。

また、古い例をあげれば、スコットランドの物理学者・マクスウェルが書いた4本の方程式は、電波の存在を「予測」していた(1860年代)。実際に電波が検出されるのは、それから20年近くも後の話である。

なんと数学の記述する世界の正確なことか。「これほどうまく合致するのは、なぜなのか?」と、かのアインシュタインも頭を悩ませている。





「数学は発明なのか、発見なのか」

はたして深海の一匹のクラゲは、何かを数えようとするのであろうか?



ここで一つ注意しておくべきことは、たとえ数学がいかほど正確に世界を記述しようとも、まだまだ「数学的予測」が不可能な現実が山ほどあるという事実である。

たとえば、経済学では多くの変数を定量解析することに失敗している。もし、これが成功していたら、世界に景気後退などなくなるはずなのだから…。



しかし、逆に考えれば、数学に「限界がある」ということは、これは人間の「発明」に近いのかもしれない。ヒューマン・エラーは我々人間の得意とするところである。

まあ、ただ単に我々人間が「知らない変数」がまだまだたくさんあるだけの話かもしれないが…。そうであるのなら、我々はまだまだ「発見」する必要がありそうだ。





出典:日経サイエンス 2011年 12月号
「数学が世界を説明する日」