ラベル 歴史人 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 歴史人 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2012年11月13日火曜日

苦渋のポーツマス条約。羨望と警戒


日本はロシアと戦う前から、「講和」を考えていた。

戦争する期間は1年間ぐらい、6分4分の勝ちで良し。

それが小国日本が大国ロシアとの決戦に踏みきれた理由でもあった。



その講和の絶好のチャンスとなったのが、日本海海戦(1905年5月)における日本軍の大勝利。ロシアが最後の望みを託していたバルチック艦隊が壊滅してしまったのだ。

しかし、それでも不十分だと考えたのがアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領。のちに日露間の講和を斡旋することになる彼は、金子堅太郎にこう言った。

「日本軍は今のところ、何もロシアの領土を占領していない」



そこで急遽、日本軍は「樺太」へと兵を進め、1ヶ月もかけずにアッという間に占領してしまう。

この樺太占領は、ロシアを講和のテーブルに着かせるためだけの、いわば「付け焼刃」であったという。



さて、いよいよポーツマスで日露の講和会議が行われることになるが、ロシアは不利な戦局におかれながらも、がぜん強気である。

ロシア皇帝ニコライ2世はあらかじめ、「1ルーブルの賠償金も、1ピチャージの土地も日本に渡してはならない」と全権大使ウィッテに言い含めていた。

有利な戦闘を展開していた日本とて、講和を急がなければならない理由がある。なにせ、日露戦争の戦費は当初予算の7倍にも膨れ上がっており、長期的な戦闘継続はほぼ不可能であった。



莫大な戦費による財政の大穴を埋めるため、ぜひにも賠償金が欲しい日本。それをビタ一文とて支払いたくないロシア。頑ななるウィッテは「ここには勝者も敗者もいない」と豪語する。

この絶望的な交渉はおよそ1ヶ月、10回の会議の末にようやく結論をみる。それは、アメリカの駐露大使の説得が奏功し、ロシア皇帝ニコライ2世が「樺太の南半分」を譲ることに渋々同意したからであった。しかし、賠償金を支払うことは断固として拒否した。



「賠償金はまったくなく、全島占領したはずの樺太も南半分だけ」

これが、大国ロシアに日本の勝利を認めさせた条件だった。

納得いかぬのは日本国民。日比谷公園に集った市民は暴徒化し、各所を襲撃して回った。この日露戦争における日本人の死傷者は22万7,000人(うち戦死者8万4,000人)。これほど犠牲甚大なる大戦争が、無に帰してしまったことに我慢がならなかった。



それでも、大国ロシアに勝利したという日本の「名声」は世界に鳴り響いた。

それまで未開国とされていた日本が、世界に「一等国」と認められるようになるのは、この日露戦争以後のことである。日本はアジア・中近東・アフリカなど「これからの国」に先駆けて、羨望と模範の的となったのだ。

しかしその一方で、欧米列強からは「警戒の目」で見られるようにもなる。とりわけ日米関係はこじれにこじれ、アメリカでの日本人移民排斥運動は激化、悪化の一途をひた走るのであった…。





出典:歴史人 2012年 01月号
「日本はいかにして日露戦争を終結させたのか?」

2012年11月11日日曜日

不敵なる東郷ターン、バルチック艦隊を殲滅


ロシアのバルチック艦隊を眼前にした日本海軍。

その旗艦「三笠」のヤードには「Z旗」が翻った。この旗の意味するところは「皇国の興廃、この一戦にあり」という悲壮なる覚悟である。



そして、Z旗が掲げられた10分後、司令長官・東郷平八郎は右手を高々と上げ、左回しに回した。

「長官、取り舵ですか?」

参謀長の加藤友三郎は念のために聞き返した。東郷の命に従えば、それは敵艦の射程距離内での「敵前回頭」となり、常識的な海戦術では自殺行為とされるものであった。



「さよう」

東郷に迷いはない。

のちに「東郷ターン」とよばれる敵前大回頭のはじまりである。





「しめた」

バルチック艦隊を率いるロシアのロジェストヴェンスキーは、即座に一斉砲撃を命ずる。回頭中の戦艦「三笠」率いる日本海軍第一・第二艦隊は、静止した的のように狙いが定め易い。

無防備にハラを晒した「三笠」の右舷には敵弾が面白いように命中する。司令長官・東郷の乗る「三笠」は右舷側に40発、左舷側に8発を被弾した。その激震や凄まじい。ところが不思議なことに、艦橋最上部(司令塔)には当たらなかった。



奇跡的に魔の5分間を凌ぎ切った戦艦「三笠」は、ついに反撃を開始する。

日本海軍の砲撃はロシア軍のそれとは比較にならぬほど正確で、ロシアの旗艦「スワロフ」の司令塔をあっという間に吹き飛ばす。この時、その司令塔にいたバルチック艦隊の司令長官・ロジェストヴェンスキーは重傷を負ってしまう。



「勝敗は最初の30分で決まった」

そう言われる通り、大胆不敵な「東郷ターン」は絶大な功を奏した。皮を切らせて、骨を断ったのだ。

バルチック艦隊は38隻で日本海にやって来たわけだが、わずか2日間のうちに日本海軍は16隻を撃沈、6隻を捕獲、6隻は自沈という大戦果。ロシア港ウラジオストックまでたどり着けたのはわずか3隻だけだった。

まさに「殲滅」。完全勝利である。「大日本帝国万歳、大日本海軍万歳、世界空前の大捷(大勝利)、敵艦隊全滅」。当時の新聞にはそう報じられた。



「まさか…」

世界の列強はその第一報が信じられなかった。「極東の小国が大国ロシアの艦隊に大勝するはずがない…」。そのため、日本の同盟国だったイギリスでさえ、事実を再確認するために新聞の発行を遅らせたほどだった。



重傷を負っていたロシアの司令長官・ロジェストヴェンスキーは、白旗を掲げて降伏した艦の中で苦しんでいた。そしてその後、佐世保の海軍病院に移送されて手厚い看護を受けていた。

そのロジェストヴェンスキーを見舞った日本海軍の司令長官・東郷平八郎。

敬意ある東郷のいたわりに対して、ベッド上のロジェストヴェンスキーは「敗れた相手が閣下であったことが唯一の慰めである」と慇懃に答えたという。



日露の講和条約が結ばれた後、東郷は日本海軍の解散式を行い、「解散の辞」を読み上げる。

「連合艦隊はここに解散することになった。(中略)。武力は艦船兵器のみにあるのではなく、これを活用する『無形の実力』にある。『百発百中の一砲』は、百発一中の敵砲に対抗しうる…」

この文を起草したのは参謀の秋山真之と伝わるが、アメリカ大統領ルーズベルトはこの辞にいたく感銘を受け、英訳文を将兵に配布させたとのことである。



この「解散の辞」は、こう締めくくられる。

「古人曰く、勝ってカブトの緒を締めよと」










(了)






関連記事:

世界トップレベルの通信網。「敵艦ミユ」

「鼻垂れ」から「日本騎兵の父」へ。秋山好古

幻と消えた名将・乃木の築城作戦。旅順(日露戦争)



出典:歴史人 2012年 01月号
「皇国の興廃、この一戦にあり 日本海海戦でバルチック艦隊を殲滅す!」

討つ者も討たるる者も…、みな「土くれ」


討つ者も、討たるる者も土器(かわらけ)よ
砕けてあとは、もとの土くれ



この無常観そのもののような辞世の句を詠んだのは「三浦義同(みうら・よしあつ)」。通称「道寸(どうすん)」の法名で知られる三浦一族本宗家、最後の当主である。

「三浦一族」といえば、鎌倉時代を代表する御家人の一つであるが、この道寸が北条早雲に討たれたことによって、その本流の血筋は途絶えることとなる。



しかし、道寸ほどしぶとく城を守り続けた武将は、日本史上に例がない。

その籠城戦は、日本合戦史上最長の4年あまりにも及んだのだ。

三浦半島(神奈川県)の新井城に籠った道寸は、扇谷上杉家(おうぎがやつ・うえすぎけ)の援軍も待ちながら、ひたすらに耐えていた。しかし悲しいかな、その援軍はことごとく北条早雲によって撃退されてしまう。北条早雲といえば、戦国時代の黎明を告げることとなる男。相手が悪かったとしか言いようがない。



三方を海に囲まれた新井城は、攻めるのに難い分、出撃にも不向きであり、外部からの援軍なしに勝利の道はなかった。そして、その頼みの綱はプッツリと断たれた。

万策尽きた新井城。かくして、その命運は尽きることとなる。永正13年(1516)7月11日、最後の壮絶な戦いのなかで道寸は討ち死。ついに新井城は北条早雲の手に落ちる…。



落城後の焼け跡に立ち、道寸のクビを前にした北条早雲は何を思ったのであろうか。おそらくは早雲も、道寸の辞世の句を知っていたであろう。

”討つ者も、討たるる者も土器(かわらけ)よ。砕けてあとは、もとの土くれ…”

討たれた道寸は「かわらけ」のように砕け、もとの「土くれ」となった…。



小さな救いは、落城以前に逃れていた道寸の次男、のちの正木通綱が生き延びたことだ。その孫にあたる於万の方は徳川家康の側室となり、紀伊頼宣と水戸頼房を生んで、その血を徳川家内に残すこととなる。

一方、一時的な勝者となった北条早雲も、その子孫は天正18年(1590)、豊臣秀吉によって「討たれる者」となり、やはり「土くれ」に帰すこととなる。それは道寸が土くれと化してから74年後のことだった…。





出典:歴史人2012年1月号
「城を攻める 城を守る」

2012年10月20日土曜日

世界トップレベルの通信網。「敵艦ミユ」


濃霧の海に目を凝らして見えた、小さな「灯火」。

哨戒中だった「信濃丸」は、その追跡を始める。そして、夜が白み始めた頃だった、大小の艦隊が次々と海上に浮かび上がってきたのは。ロシア最強「バルチック艦隊」である。

信濃丸の発見した「灯火」は最後尾の病院船「アリョール」のものだった。全艦隊に灯火管制が命じられていた中、この病院船ばかりは戦時国際法で攻撃されないと安心していたのか、灯火をつけていた。それが、日本軍に幸いしたのだ。



時は日露戦争における日本海海戦のまさに前夜から夜明けにかけて。

パルチック艦隊はバシー海峡(台湾とフィリピンの間)を通過後、行方が分からなくなっており、いったいどの航路から日本を横切りウラジオストク港に入るのかが不鮮明となっていた。

宗谷海峡(樺太と北海道の間)を通るのか? それとも津軽海峡(北海道と青森の間)を抜けるのか? 予想通り、対馬海峡(朝鮮半島と九州の間)に姿を現すのか?



「そろそろ哨戒船に発見されても、おかしくないのだが…」

司令部には焦りが生まれていた。そんな中、総司令官・東郷平八郎はついに「28日になっても対馬海峡に現れなければ、津軽海峡方面に向かう」ことを決意した。

探しあぐねていたバルチック艦隊の小さな灯火を信濃丸が発見するのは、27日の深夜(午前2時45分)。それは日本艦隊が対馬海峡を離れようとしていたわずか一日前のことだった。こうして、運命の糸は辛うじて切れずにつながったである。



バルチック艦隊を発見した信濃丸は、即座に「敵艦ミユ」を意味する暗号電文を打った(27日午前5時5分)。それを「厳島」が受信し、東郷平八郎の乗る「三笠」へ転電。待望の電文を受け取った東郷は、即刻、日本海海戦へ向けて舵を切る。

参謀・秋山真之(さねゆき)は、大本営に打電するための電文に目を通すと、その最後に次の一文を加えさせた。

「本日、天気晴朗ナレドモ、浪(なみ)高シ」

名分として知られるこの電文は、27日午前5時15分に大本営へと打電された。バルチック艦隊発見の報からわずか10分、すべての準備は整ったのである。



これほど迅速に通信が行われたのは、参謀・秋山真之が上申して実現させていた「三六式無線電信機」のおかげであった。この電信機は世界トップレベルの通信力を誇っており、バルチック艦隊の発見報告をいち早く総司令官・東郷、そして参謀・秋山の元へともたらしたのだ。

また、日本軍は独自の軍用水底(海底)線を日本海に敷設しており、「無線・海底ケーブル・地上有線」を使った画期的な情報ネットワークが構築されていた。参謀・秋山の歴史的名文「本日、天気晴朗ナレド…」も、海底ケーブルを利用して送られたのである。



のちに参謀・秋山真之は、こう語っている。

「日本海海戦は最初の30分で勝負が決まった。しかし、その30分のために10年の準備がいる」

以後の結果だけを記せば、日本海海戦は日本海軍の大勝利、それは日露戦争全体の勝利に大きく貢献することとなる。





出典:歴史人 2012年 01月号
「皇国の興廃、この一戦にあり 日本海海戦でバルチック艦隊を殲滅す」

2012年9月17日月曜日

戦火が止むや一転、ドンチャン騒ぎ。旅順攻防戦


日露開戦から初めての年明けとなった明治38年(1905年)1月1日、旅順の二竜山堡塁を占領した第九師団は、さらに望台の占領を企てた。一戸兵団と前田兵団は左右両翼より山頂に突撃、雄叫びを上げながら駆け上がった。

午後3時40分、敵影は完全に消える。占領した望台から見下ろせば、旅順の旧市街はまるで足元にあるかのような近さに見えた。そして、午後4時、白旗を持ったロシア・マルチェンコ少尉が休戦の申し入れにやって来る。

それを受けて、乃木希典は全軍に戦闘中止を命令。こうして155日間にわたった旅順攻防戦は、ようやくその幕を下ろすこととなった。



ここで特筆すべきは、戦火が止んですぐに「兵士交歓(フラターニティ)」が行われたことである。旅順の旧市街からは将校夫人とおぼしきロシア女性が現れ、日本軍の豪の者たちも旧市街へと繰り出し、酒食の歓待を受けたという。

ちなみに、のちの第一次世界大戦でも、交戦中の敵味方であったドイツ・イギリス両軍の兵士が、クリスマスの時にはサッカー遊びに興じている。



乃木は明治天皇の親裁を得て、「将校に帯剣を許す」という寛大な措置をとっている。しかしその陰で、乃木は将兵の死を悼んで、静かに嗚咽していたという…。



出典:歴史人歴史人 2012年 01月号
「屍の戦場! 旅順要塞と二〇三高地攻略」

幻と消えた名将・乃木の築城作戦。旅順(日露戦争)


時は日露戦争。当初、「封じ込め」で十分とされた旅順だが、日本海軍がロシアの旅順艦隊を仕留め損なったことにより、日本陸軍は是が非でも旅順を攻め落とすことを強いられることとなった。

日清戦争において、乃木希典率いる日本陸軍は旅順をわずか一日で落としている。しかし、ロシアの手に渡っていた旅順は、その頃からは一変、ベルギーの工兵総監・ブリアルモンの思想に基づいた近代要塞に造り替えられており、その堡塁は、固焼きレンガをベトン(コンクリート)で塗り固められた堅牢さを誇っていた。



第一回の総攻撃は7日間で死者5,000人以上を出して中止となった。この失敗により、乃木希典は旅順要塞を短期的に攻略する無理を悟った。しかしそれでも、日本にある参謀本部は乃木に強襲を迫る。それは参謀本部がロシア軍の兵力を3万程度と過小評価していたこともあった(実際には、その倍以上の6万3,000のロシア兵が旅順に籠っていた)。

当時最強とされたのは「歩兵による突撃」。前列の屍を乗り越えてでも敵陣に迫るという過酷なる戦法だ。この突撃で兵力の消耗を抑えるためには、突撃を始める地点をできるだけ敵陣の近くに寄せて、敵弾にさらされる距離を極力短くしなければならない。



そこで乃木は、敵陣の堡塁にできるだけ接近したところに塹壕を掘るという「築上作戦」を命じる。この塹壕を設計したのはドイツで要塞戦術を学んだ参謀・井上幾太郎。その塹壕は持久性と宿泊性を兼ね備えたものだった。

こういった突撃基地を目的とした塹壕は、日露戦争から10年後に勃発する第一次世界大戦中に広く用いられ、「プラッツダルメー」と呼ばれるようになる。つまり、乃木の作戦は、時代の一歩先を行く先進的なものだったのである。



それゆえ、ロシアのレーニンは、乃木をして「大きな損害を出しながらも戦術を転換できた名将」とまで賞している。

しかし悲しいかな。参謀本部はしきりに旅順攻略を乃木に急がせる。そのため、乃木には十分な塹壕を掘っている時間がなく、塹壕は主要2ヶ所(東鶏冠山と二〇三高地)にしか築けなかった。

結局、乃木の華麗なる戦術転換は、再びもとの突撃タイプへと戻され、3回にわたる総攻撃で1万6,000人にも及ぶ戦死者を出すことになってしまう…。





出典:歴史人 2012年 01月号
「屍の戦場! 旅順要塞と二〇三高地攻略」

神速で28サンチ砲を設営した男。有坂成章


「おい長岡君、今の砲口ではとても『旅順要塞』は落ちない。『二十八サンチ榴弾砲』をやろうではないか」

参謀次長・長岡外史に、有坂成章はそう話しかけた。その目標は、日露戦争における最大の激戦地・旅順要塞である。



有坂は大口径砲でロシア軍の兵舎を貫通することを考えていた。28サンチ砲というのは、海岸などに常設される巨大砲であった。それに使用される砲弾は「堅鉄弾(けんてつだん)」と呼ばれる徹甲弾。これは主に艦船を撃沈するためのものだ。

この「堅鉄弾」は無筋コンクリートであれば1.8mを貫通する。対する旅順要塞の防壁は無筋コンクリート換算で1mほどの厚さ。有坂の計算ではギリギリ貫通できると見ていた。


しかし、28サンチ砲というのは海岸砲として設計されていたために、野戦での移動などは考慮されていなかった。たとえ移動させたとて、巨砲発射に耐えられるようなコンクリートの強固な砲台が不可欠であった。

当時のコンクリートは乾燥に3ヶ月を要する。「神速」の攻撃を迫られていた旅順攻略戦において、この長期間はおよそ非現実的であった。



ところが、有坂は「多方面の天才」。要塞も設計すれば、歩兵銃から野砲、砲台まで手がけた経験があった。有坂が目をつけていたのは、当時最新のポルトランド・セメント。これを用いれば、「1ヶ月」で28サンチ砲が設営可能と読んだ。

計画は有坂の目論見どおり。首尾よく移動、設置。参謀次長・長岡外史に話を持ちかけてから、本当にわずか1ヶ月で砲撃を開始できるまでに仕立てあげてしまった(9月末)。

小説「坂の上の雲」においては、この28サンチ砲は児玉源太郎の献策とされているが、その実働を担ったのは、最前線にあった有坂成章、その人であった。むしろ、児玉は当初、二〇三高地への攻撃にも否定的であり、海軍から要請されていた28サンチ砲の建設にも反論していた。



児玉が二〇三高地を確保すべきだと方針転換するのは、実際に旅順に立ってからのことらしい(11月末)。28サンチ砲は、その2ヶ月も前にすでに設置され、二〇三高地への砲撃を開始していたのである。

28サンチ砲を盛んにブッ放しても、二〇三高地は2ヶ月以上も落ちなかった。児玉は28サンチ砲の前進を命じたというが、それは怪しい。児玉が到着して1週間もせずして二〇三高地は落ちるのである。いくらポルトランド・セメントが早く乾くとはいえ、その移動に最低でも一ヶ月はかかるはずである。



そして、28サンチ砲だけが二〇三高地奪取への特効薬ではなかったのと同様、二〇三高地占領は旅順陥落を意味しなかった。激しい戦闘は二〇三高地占領後、およそ一ヶ月も続くのである(二〇三高地陥落以降の日本の戦死者は2,400名にも達する)。

小説の世界では、28サンチ砲が簡単に旅順を落としたような印象を受けるものの、現実の戦闘は、もっともっと血生臭いものであったようである…。





出典:歴史人歴史人 2012年 01月号
「屍の戦場! 旅順要塞と二〇三高地攻略」



関連記事:

世界トップレベルの通信網。「敵艦ミユ」

「鼻垂れ」から「日本騎兵の父」へ。秋山好古

「将棋」というより「碁」。日米戦争






2012年9月16日日曜日

冷徹なる作戦、歩兵隊による銃剣突撃


日露戦争当時の日本兵は、肩が触れ合うほどに近い前後三歩に密集して、銃剣突撃を敢行したのだという。

当然、前を行く将兵は敵弾に倒れる。それでも、敵兵が次の銃弾を発射してくるまでには多少の時間が稼げる。それまでに敵陣に殺到できれば陣地を崩せる。そんな「冷徹な計算」に基づいていた。

当時、いずれの国のマニュアルもこのように冷徹な思想に立脚しており、「密集歩兵による突破力が最強だ」と信じられていた。なぜなら、馬に乗った騎兵が小銃の前に無力だと判明して以来、他に方法がなかったのである。



抜粋:歴史人 2012年 01月号
「屍の戦場! 旅順要塞と二〇三高地攻略」

2012年9月13日木曜日

競わない球技、「蹴鞠」

1400年という永い歴史を誇る日本の球技、それは「蹴鞠(けまり)」。

皆で鞠を蹴り、地面につかないように繋いでいくことが、まず大事。その上で、「音(蹴った時に、良い音が鳴ること)」、「色(良い回転がかかること)」、「高さ(4m以上上がること)」の3点が重視される。

「色(回転)のない鞠は、『死に鞠』と呼ばれます」



そして、その最大の特徴は「勝ち負けがないこと」。

「たとえば、次の相手がうまく鞠を蹴れるように、蹴りやすい球を蹴らなくちゃいけない。相手がうまく蹴れないのは自分の責任でもあるのです」。

競争のない球技。競うよりも「和をもって尊しとなす球技」、それが日本古来の蹴鞠の姿であった。そして、この繋いでいく鞠こそが、「日本の心」なのである。





出典:
歴史人2012年1月号
「歴史人倶楽部 第15回 蹴鞠保存会」