2012年9月17日月曜日

幻と消えた名将・乃木の築城作戦。旅順(日露戦争)


時は日露戦争。当初、「封じ込め」で十分とされた旅順だが、日本海軍がロシアの旅順艦隊を仕留め損なったことにより、日本陸軍は是が非でも旅順を攻め落とすことを強いられることとなった。

日清戦争において、乃木希典率いる日本陸軍は旅順をわずか一日で落としている。しかし、ロシアの手に渡っていた旅順は、その頃からは一変、ベルギーの工兵総監・ブリアルモンの思想に基づいた近代要塞に造り替えられており、その堡塁は、固焼きレンガをベトン(コンクリート)で塗り固められた堅牢さを誇っていた。



第一回の総攻撃は7日間で死者5,000人以上を出して中止となった。この失敗により、乃木希典は旅順要塞を短期的に攻略する無理を悟った。しかしそれでも、日本にある参謀本部は乃木に強襲を迫る。それは参謀本部がロシア軍の兵力を3万程度と過小評価していたこともあった(実際には、その倍以上の6万3,000のロシア兵が旅順に籠っていた)。

当時最強とされたのは「歩兵による突撃」。前列の屍を乗り越えてでも敵陣に迫るという過酷なる戦法だ。この突撃で兵力の消耗を抑えるためには、突撃を始める地点をできるだけ敵陣の近くに寄せて、敵弾にさらされる距離を極力短くしなければならない。



そこで乃木は、敵陣の堡塁にできるだけ接近したところに塹壕を掘るという「築上作戦」を命じる。この塹壕を設計したのはドイツで要塞戦術を学んだ参謀・井上幾太郎。その塹壕は持久性と宿泊性を兼ね備えたものだった。

こういった突撃基地を目的とした塹壕は、日露戦争から10年後に勃発する第一次世界大戦中に広く用いられ、「プラッツダルメー」と呼ばれるようになる。つまり、乃木の作戦は、時代の一歩先を行く先進的なものだったのである。



それゆえ、ロシアのレーニンは、乃木をして「大きな損害を出しながらも戦術を転換できた名将」とまで賞している。

しかし悲しいかな。参謀本部はしきりに旅順攻略を乃木に急がせる。そのため、乃木には十分な塹壕を掘っている時間がなく、塹壕は主要2ヶ所(東鶏冠山と二〇三高地)にしか築けなかった。

結局、乃木の華麗なる戦術転換は、再びもとの突撃タイプへと戻され、3回にわたる総攻撃で1万6,000人にも及ぶ戦死者を出すことになってしまう…。





出典:歴史人 2012年 01月号
「屍の戦場! 旅順要塞と二〇三高地攻略」

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