2013年7月1日月曜日

「将棋」というより「碁」。日米戦争



昼食後の午睡の時間、ゼロ戦の整備兵らはよくザル碁を打っていたという。

「出撃前と出撃から帰ってきてからは整備兵の仕事はたいへんでしたが、それ以外の昼間はわりに暇な時間があったんです」と、永井清孝は話す。

時は第二次世界大戦、場所は南太平洋のラバウル基地。









「あれは昭和17年(1942)の秋でした。いつものように兵舎の庇がつくる日陰の下で、碁好きの整備兵がザル碁を打っていました」

すると、不意に艦隊司令部参謀の月野少佐がふらりとやって来た。

「艦隊司令部の少佐というのは、われわれ兵隊から見れば『雲の上の人』ですから、緊張してコチコチになりました」と、一整備兵だった永井は言う。



草の上にドカっと腰を下ろす月野少佐。

「気楽にするように」と言って、ザル碁を見物しはじめる。

整備兵らにとっては「息の詰まる時間」。いつものような軽口も叩けなければ、直立不動の姿勢も崩せない。



月野少佐は数局眺めた後、「一局お願いしてもいいかな」と、整備科で一番強い橋田兵曹に声をかけた。

「言われた橋田も驚きましたが、わたしらも驚きました。何しろ少佐というたら、兵隊がおいそれと口も利けない相手です。その相手に碁を打つなど…。橋田兵曹が泣きそうな顔でわたしらを見たのを思い出しますな」と、永井は笑う。



月野少佐の碁は「旦那碁」ではなかった。

「その腕前は大変なもので、整備で一番強いはずの橋田兵曹が苦もなく捻られ、散々にやられました」と永井は言う。



それ以来、たまに整備兵のザル碁を見に来るようになった月野少佐。根っからの碁好きのようだった。

たいていはニコニコ見ているだけだったが、その時は真顔でこんな話をはじめた。

「山本長官は『将棋』がたいそう好きらしいが、『碁』は知らんらしいな。もし碁を知っていたら、今度の戦争も違った戦い方になったと思うな」



少佐が言うには、将棋は「敵の大将の首を討ち取れば終わり」。たとえ兵力が劣っていようとも、どんなに負けが込んでいようとも、敵の総大将の首さえ刎ねてしまえば、それで勝ちである。

「言ってみれば、わずか2,000の軍勢の織田信長でも、2万の今川義元を破ることが出来るようなものだ。本来、2千が2万に勝てるわけがない。しかし義元の首を取れば、戦いは終わりだ。それが将棋だな」と月野少佐は言う。









だが、「碁」は違う。

「囲碁はもともと中国で生まれた遊びだ。361の目の数からして、一年の占事かなにかに使ったようだが、それがいつしか戦争遊びになったのだろう。そして広大な中国大陸を獲り合うような遊びになった。言ってみれば、碁は『国の獲り合い』だ」と、月野少佐は語る。

「かつて日露戦争では、日本の連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を打ち破って戦争に勝利した。連合艦隊はそれ以来、敵の王将つまり主力艦隊を打ち破れば戦争に勝つと思い込んできたのだ」

「しかし今度のアメリカとの戦争は、敵の王将を取れば終わりという戦ではない」



月野少佐は重い言葉を吐いた後、つぶやくようにこう言った。

「山本長官も、大変な戦争を始めたものだよ…」













(了)






※「ザル碁」

ザル碁というのは、素人が打つような「雑な碁」。本来、囲碁は細かい配慮を必要とするものだが、それの欠けた碁のことである(自らの碁を謙遜して言う場合もある)。

ルールが単純な碁は、将棋やチェスと比べても、石を置いて良い場所の制約が極めて少ない。つまり、打ち手の選択肢が格段に広く幅がある。その戦略の自由度の高さから、逆に囲碁は複雑なゲームになっている(ルールが単純なほど複雑になるというのも逆説的だ)。

ゆえに、コンピューターが人間に勝てない。より戦略の制限された将棋やチェスなどで名人がコンピューターに打ち負かされるのとはワケが違う。囲碁ではまだ、コンピューターに勝ちが薄い。ある人は、21世紀中に囲碁の名人に勝てるコンピューターは現れないとも言う。

それほど、囲碁は相手の手の先読みが難しい。その思慮の深さ、細やかさも推して知るべし。まさに水も漏らさずである。ゆえに誰しも「粗目のザル」となってしまうのも致し方なし。






(了)






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ソース:永遠の0 (講談社文庫) 百田尚樹


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