2015年3月30日月曜日

土地の義民、磔(はりつけ)茂左衛門



話:若山牧水






 月夜野橋に到る間に私は土地の義民、磔(はりつけ)茂左衛門の話を聞いた。

 徳川時代寛文年間に沼田の城主、真田伊賀守が異常なる虐政を行った。領内利根・吾妻・勢多三郡百七十七ヵ村に検地を行い、元高三万石を十四万四千余石に改め、川役・網役・山手役・井戸役・窓役・産毛役など(窓を一つ設くれば即ち課税し、出産すれば課税するの意)の雑役を設け、ついに婚礼にまで税を課するに至った。納期には各村に代官を派遣し、滞納する者があれば家宅を捜索して農産物の種子まで取上げ、なお不足ならば人質を取って皆納するまで水牢に入るるなどの事を行った。

 この暴虐に泣く百七十七ヵ村の民を見るに見兼ねて、身を抽(ぬき)んでて江戸に出て酒井雅楽守(うたのかみ)の登城先に駕訴(かごそ)をしたのがこの月夜野村の百姓、茂左衛門であった。けれどその駕訴は受けられなかった。そこで彼は更に或る奇策を案じて、具(つぶ)さに伊賀守の虐政を認(したた)めた訴状を上野寛永寺なる輪王寺宮に奉った。幸いに宮から幕府へ伝達せられ、時の将軍綱吉も驚いて沼田領の実際を探ってみると果たして訴状の通りであったので、直ちに領地を取上げ伊賀守をば羽後山形の奥平家へ預けてしまった。

 茂左衛門はそれまで他国に姿を隠して形勢を見ていたが、かく願いの叶ったのを知ると潔く自首するつもりで乞食に身をやつして郷里に帰り、僅かに一夜その家へ入って妻と別離を惜み、明方出かけようとしたところを捕えられた。そしていま月夜野橋の架っているツイ下の川原で磔刑(はりつけ)に処せられた。しかも罪のない妻まで打首となった。漸く蘇生の思いをした百七十七ヵ村の百姓たちは、やれやれと安堵する間もなく茂左衛門の捕えられたを聞いて大いに驚き悲しみ、総代を出して幕府に歎願せしめた。幕府も特に評議の上これを許して、茂左衛門赦免の上使を遣わしたのであったが、時僅かに遅れ、井戸上村まで来ると処刑済の報に接したのであったそうだ。

 旧沼田領の人々はそれを聞いていよいよ悲しみ、刑場蹟に地蔵尊を建立して僅かに謝恩の心を致した。ことにその郷里の人は月夜野村に一仏堂を築いて千日の供養をし、これを千日堂と称(とな)えたが、千日はおろか、今日に到るまで一日として供養を怠らなかった。が、次第にその御堂も荒頽して来たので、この大正六年から改築に着手し、十年十二月竣工、右の地蔵尊を本尊として其処に安置する事になった。



 こうした話をU-君から聞きながら、私は彼(か)の佐倉宗吾の事を思い出していた。事情が全く同じだからである。而(しか)して一は大いに表われ、一は土地の人以外に殆んど知る所がない。そう思いながらこの勇敢な、気の毒な義民のためにひどく心を動かされた。そしてU-君にそのお堂へ参詣したい旨を告げた。

 月夜野橋を渡ると直ぐ取っ着きの岡の上に御堂はあった。田舎にある堂宇としては実に立派な壮大なものであった。そしてその前まで登って行って驚いた。寧ろ凄いほどの香煙が捧げられてあったからである。そして附近にはただ雀が遊んでいるばかりで人の影とてもない。百姓たちが朝の為事(しごと)に就く前に一人一人此処にこの香を捧げて行ったものなのである。一日としてこうない事はないのだそうだ。立ち昇る香煙のなかに佇みながら私は茂左衛門を思い、茂左衛門に対する百姓たちの心を思い瞼(まぶた)の熱くなるのを感じた。










引用:若山牧水「みなかみ紀行」




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