2015年11月2日月曜日

絶世の美女シリマー、その遺体 [スマナサーラ]



話:アルボムッレ スマナサーラ
あべこべ感覚―役立つ初期仏教法話7






お釈迦さまがいらした時代、インドのコーサラ国にあまりにもすごい美人がいました。名はシリマー(Sirima)といいました。

人々は、一日彼女と生活するために、たとえば千両のような高額なお金を払わなくてはいけない決まりになっていました。しかし、そんなに払っても一日だけです。その一日で、彼女は料理をつくったり、歌ったり、踊ったり、なんでもしてくれます。ですから、たとえすごく高い料金でも、一日だけ絶世の美女と一緒に生活できることにすごく喜びを感じます。それほど美しかったのです。

本当は、誰もが何度も高いお金を払って、一緒に過ごしてもらいたいと思うのですが、一般人にはとても払える値段ではありません。わざとそういう値段設定にしています。王様や億万長者やほんの数人にしか、彼女を呼んでお祭りをすることはできません。



さて、そんなとき、ある人が出家しました。仏道の世界に入ったのです。仏道の世界に入ったばかりのときに

「あの絶世の美女シリマーは、ブッダの信者さんだ」

と耳にしました。出家したばかりの人は、

「あの有名人も仏教徒ですか」

と、とてもびっくりしました。しかし、他のお坊さんたちにとっては、シリマーもただ一人の信者でしかありません。

「あぁシリマーさんも、ときどき来ます」

という程度です。シリマーさんも来るし、国王も来るし、偉い○○さんも来るしで、なにも特別なことはありません。国王が来てもお坊さんたちは、いきなり立ち上がってお辞儀をしたり、瞑想をやめたりなど、そんなことは全然ありません。たとえ国王が来ても、国王のほうが修行の迷惑にならないように、皆を避けながらお釈迦さまのところに行きます。仏教の世界は、そういう世界です。人間は平等です。

この人は出家したばかりで、まだまだ成長していないし、だらしない状態でした。そして、絶世の美女と名高いシリマーは、他のお金持ちの人と当番で、お釈迦さまと比丘たちにお布施をしていました。たくさんお坊さんたちがいますからね。彼女は毎日、何人かにお布施をしていたのです。



お坊さんが、いつも300人や500人ぐらいはいました。毎日、食事をお布施している人のところに、お坊さんが振り分けられます。

「この10人のお坊さんは、あちらに行きなさい」
「この5人のお坊さんは、あの家に行きなさい」
「この20人のお坊さんは、あちらに行きなさい」

というように、認定されているお坊さんが行く先を決めます。そのお坊さんに逆らってはいけないと、これも戒律で決められています。そこに行ってもらうと決めたその人の判断は絶対で、逆らうことはできません。言われたところに行くしかありません。



シリマーのところに行くお坊さんも、そのように決められます。判断するお坊さんも、平等にやらなくてはなりません。個人的な好みでやってはいけないし、人の顔色を見てやってはなりません。

たとえば、お布施をする在家の人々に

「サーリプッタ尊者に来てほしいですか?」

と聞けば、みんな一斉に

「ぜひ家に来てください」

と言うでしょう。サーリプッタ尊者は一人ですから、一日一ヶ所にしか行けません。

「うちこそがサーリプッタ尊者にお布施したかった」

などと、在家で文句ばかりがあがったり、争いが起こってはたまりません。ですから、不満を言うのは在家も禁止。まぁ、空いていれば要求は聞いてあげますが、空いていなかったら、どうしようもない、担当のお坊さんの指示に文句も言わずに従うことになっています。



昔のお坊さんたちは、個人的に接待を受けるのは遠慮していました。リクエストがあっても

「サンガ(僧団)に注文を出してください」

と答えます。

「サンガが決めて、誰かが行くでしょう」

という方法をとっていました。そのほうが公平で安心です。

お布施を受けるお坊さんは、毎日クジを引きます。毎日、お坊さんたちはそのクジを取り、そこに誰の家かと書いてありますから、そこに行きます。このクジの結果は、誰にも文句を言うことができない決まりです。



あるとき、例の出家したばかりのお坊さんに、シリマーの家に行くクジが当たりました。悪いことに、という感じです。まだ修行をはじめたばかりでだらしないので、次の日から夜も

「なんてツイていることか」

などと考えてしまいます。ただで見られますからね。しかしそのときは、彼女はもうそんなに若くありませんでした。老人とまではいきませんが、若くて元気はつらつで、皆を喜ばせるほどの年齢ではありませんでした。

シリマーは、仏教の信者になってからはお布施や瞑想で忙しく、かつて一日千両ももらっていたおかげで、お金の不自由はありませんでした。ですからシリマー自身、美しさの見返りに誰かに一日千両をもらうなどということは、どうでもよくなっていました。



さて、例のお坊さんがシリマーの家にお布施をいただきに行ったとき、彼女は発作を起こしました。発作を起こして、体がたいへんなことになりました。いきなり目が変なところに向いてしまうし、口が曲がる、よだれが出る、身体が震える、とてもひどい状態です。なんの美しさのかけらもありません。

しかし、発作で倒れても彼女は、お布施だけはちゃんと召使いに頼んでやらせました。そして、お坊さんたちに挨拶をする時間になったら、彼女は

「お礼をしに行かなくては」

と必死です。毎日やっていることですから、発作で倒れたその日も

「私をお坊さんたちのところに運びなさい」

と、召使いに命じました。皆、ぼろぼろになっている彼女をなんとかして、お坊さんたちが托鉢に来たところに運んで行きました。すると、彼女はすごく両手が震えるのに、震えた手できちんと礼をしました。

そのあとはさすがに家来が家の中に運んで、寝かしておきました。そして、その日、シリマーは亡くなったのです。ですから、ふつうのちょっとした痙攣ではなくて、心臓発作か脳出血などを起こしたのでしょうね。



礼のお坊さんが見たのは、もう、ぼろぼろで醜くなって瞬間のシリマーでした。シリマーの人生でいちばんカッコ悪い、最悪の姿です。それなのに、修行はまだまだで捏造は達人ですから、いちばん醜い姿を見ても

「この方は、そうとう美人だ」

と思ったのです。

「体格や肌の色など、元気なときは、さぞや素晴らしかったでしょう」

と思ってしまいました。実際に見たのは最悪最低、いちばん身体の形も悪いときです。なんの見栄の一かけらもない、醜い姿。それなのに

「それでも美人だ」

と思ったというのですから、すごい顛倒です。



そのお坊さんは、本気になってしまいました。そのままお寺に帰って寝込んでしまいました。お坊さんたちがいろいろなことを言っても、ご飯も食べません。お釈迦さまはその様子を知り、

「この人は相当なショックを与えなければ治らない」

と思いました。お釈迦さまは

「放っておけ」

とおっしゃって、国王に

「葬式は中止にしてください」

と、メッセージを送りました。シリマーの死体は国の財産でしたから、国葬です。お釈迦さまに言われて国王は

「困ったなぁ」

と思いながらも言われた通り、葬式をとりやめました。現代人とちがって、昔は国王であっても政府であっても、お釈迦さまに言われたらその通りに従うのが当たり前でした。お釈迦さまは

「遺体は、そのまま放っておきなさい」

とおっしゃったので、国王はその通りにしました。



お釈迦さまから国王に

「では、そろそろ葬式を出してもいいでしょう」

と連絡が来たのは、一週間もたってからのことでした。遺体はもちろん腐っていました。膨らんだり、膿が出て、ものすごくひどい臭いが出はじめていました。

お釈迦さまは

「では葬式をやりましょう。わたしも行きます」

とおっしゃって、王様の命令で、皆を集めるように伝えました。町の人々や彼女を知っている人々を皆、集めたのです。



お釈迦さまは、比丘たちと葬式に行く際に、アーナンダ尊者に

「あの比丘にも一緒に行きましょうと言いなさい」

と伝えました。そこでアーナンダ尊者が、礼のお坊さんに

「お釈迦さまが、お葬式にはあなたも一緒に行きなさいと言っています」

と言うと、

「あぁ、そうですか。シリマーさんのお葬式ですね。わかりました。行きます」

と答えて、一週間もご飯を食べていなかったのに何のこともなく、さっと起き上がって出かけたのです。一緒に行くとはいっても、お釈迦さまはメッセージを送っただけで、その人はお坊さんのランクでは最下位ですから、後ろにいるだけです。おそらくお釈迦さまの顔を見ることもなかったでしょう。



お釈迦さまと国王が会話します。

「彼女は若い時代には、一日どれくらいの料金をとっていたのですか?」

とお釈迦さまが質問をし、王様は

「一日、千両です」

と教えます。それを聞いてお釈迦さまは

「では王様、これ(シリマーの遺体)を競(せ)りに出してください」

と指示しました。

「千両で買って持っていってくださいと、競りに出しましょう。前は一日だけでしたが、今は千両出せばずっと一緒にいられますから、たいへんお得です」

とおっしゃいました。



国王はお釈迦さまのおっしゃる通りに、職人さんに頼んで、シリマーの遺体を競りに出しました。

「彼女は、前に千両払ってもたった一日だけしか一緒にいられませんでしたが、今度は千両で権利ぜんぶを与えます。ずっと一緒にいられます」

と条件をはっきり、皆に示しました。その上で

「千両で買いたい人は、どなたでしょうか?」

と聞くと、その場にお金持ちはいっぱいいましたが、誰も手を上げません。お釈迦さまは顔色ひとつ変えずに、

「どうやら売れないみたいだねぇ。じゃあ、値段を下げてみましょう」

とおっしゃって、値段を下げて競りを続けさせました。



値段を下げても、下げても、誰も手を上げませんでした。最後には日本式に言うとたった一円になってしまいました。お釈迦さまは

「あれまぁ、一円でも買わないんだね」

とおっしゃって、

「では、誰か欲しい人にでもあげなさい」

と指示しました。そこで最後に

「では、ただでもらう人は、どなたかいるでしょうか?」

と尋ねてみました。誰も手を上げません。そこでとうとう、お釈迦さまが

「誰もいない? そう、誰もいないでしょうね」

とおっしゃって、

「そんなものですよ、この身体は。こんなものに執着するのは、愚か者以外、誰でもありません。肉体は不浄なものです。愚か者が、誰かにすごい価値があると思い込んだとしても、しょせんは腐ってしまう肉体ですよ」

と厳しく説法しました。そうして、お葬式に参加して帰ったのです。

例のお坊さんは、その説法を聞いてすっかり病気が治って、悟りに達しました。








引用:
アルボムッレ・スマナサーラ
あべこべ感覚―役立つ初期仏教法話7 (サンガ新書)




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