2021年4月27日火曜日

正史『三国志』姜維伝

 

正史『三国志』

陳寿著 井波律子訳



蜀書

姜維伝


姜維は字を伯約といい、天水郡冀県の人である。


幼くして父を失い、母と暮らした。鄭玄(ていげん)の学問を好んだ。郡に出仕して上計掾(じょうけいえん)となり、州に召し出されて従事に任命された。父の姜冏(きょうけい)は昔、郡の功曹であったとき、羌族の反乱に遭遇し、身をもって郡将を守って戦場で死亡した。そのため姜維に中郎の官を贈り、本郡の軍事に参与させた。


建興六年(228)、丞相諸葛亮の軍が祁山に向った。そのとき、天水の太守はたまたま巡察に出かけ、姜維および功曹の梁緒(りょうしょ)、主簿の尹賞(いんしょう)、主記の梁虔(りょうけん)らが随行していた。太守は蜀軍が今にもおし寄せんとしており、諸県も呼応していると聞くと、姜維らすべてが異心を抱いているのではないかと疑った。そこで夜半逃亡して上邽(じょうけい)にたてこもった。


姜維らは太守が逃亡したのに気づくと追いかけたが、城門にたどりついたころには、城門はすでに閉ざされ、中に入れてくれなかった。姜維らが連れだって冀県に帰ってくると、冀県もまた姜維を入れてくれなかった。姜維らはそこでいっしょに諸葛亮のもとへ赴いた。


たまたま馬謖が街亭で敗北し、諸葛亮は西県を陥して千余軒の住民を連れ出し、姜維らを率いて帰還した。そのため姜維は母と離ればなれになってしまった。諸葛亮は姜維を召し出して倉曹掾(そうそうえん)とし、奉義将軍の官位を加え、当陽亭侯に封じた。時に二十七歳であった。


諸葛亮は留府(りゅうふ)長史の張裔(ちょうえい)、参軍の蔣琬(しょうえん)に手紙を送って、「姜伯約(維)は与えられたその時の仕事を忠実に勤め、思慮精密であり、彼のもっている才能を考えると、永南(李邵)。季常(馬良)らの諸君る及ばないものがある。この男は涼州における最高の人物である」と述べた。


また、「まず中虎歩軍の兵五、六千人を教練する必要がある。姜伯約は軍事にはなはだ敏達していて、度胸もあるうえ、兵士の気持を深く理解している。この男は漢室に心を寄せ、しかも人に倍する才能を有しているゆえ、軍事の教練が終ったら、宮中に参上させ、主上にお目通りさせてもらいたい」ともいった。後に中監軍・征西将軍に昇進した。



十二年(234)、諸葛亮がなくなると、姜維は成都に帰還し、右監軍・輔漢将軍となって、諸軍を統率し、平襄侯に爵位をあげられた。


延照元年(238)、大将軍蔣琬に随行して漢中に駐屯した。蔣琬が大司馬に昇進した後、姜維は司馬に任命され、たびたび一軍を指揮して、西方へ侵入した。


六年(243)、鎮西大将軍に昇進し、涼州刺史を兼任した。


十年(247)、衛将軍に昇進し、大将軍の費禕とともに録尚書事となった。この年、汶山(びんざん)郡平康県の蛮族が反乱を起し、姜維は軍勢を率いてこれを討ち平定した。また隴西・南安・金城の諸郡の地に出陣し、魏の大将軍郭淮・夏侯覇らと洮水(とうすい)の西で合戦した。蛮王の治無戴(ちぶたい)らが全部落をあげて降伏したので、姜維は彼らをつれて帰還し 〔成都の近くの繁県に〕安住させた。


十二年(249)、姜維は節を与えられ、ふたたび西平に出陣したが、勝利を得ることなく帰還した。姜維は西方の風俗に習熟しているという自信のうえに、軍事の才があると自負していたから、各種の羌族を誘い入れ友軍にしようとの望みを抱き、そうなれば隴より以西の地は魏から切断して支配できると考えた。〔姜維が〕大軍を動かそうと望むたびに、費禕はつねに制約を加えて思いどおりにさせず、わずか一万の兵を与えるだけだった。



十六年(253)春、費禕がなくなった。夏、姜維は数万の軍勢を率いて〔武都より〕石営(せきえい)に出、董亭(とうてい)を経て、南安を包囲したが、醜の雍州刺史陳泰(ちんたい)が包囲を解かんとして洛門(南安の東南にある)に到達し、姜維は兵糧尽きて撤退帰国した。


翌年、督中外軍事の官位を加えられた。ふたたび隴西に出陣したところ、狄道(てきどう)を守備していた県長の李簡(りかん)が城を挙げて降伏した。進攻して襄武を包囲し、魏の将徐質(じょしつ)と交戦して、首を斬り敵をうち破ったため、魏軍は敗退した。姜維は勝ちに乗じ、多数の敵兵を降伏させ、河関(かかん)・狄道・臨洮(りんとう)の三県の住民を控致して帰還した。


のち十八年(二五五)、また車騎将軍夏侯覇らとともに狄道に出、洮水の西において魏の雍州刺史王経(おうけい)をさんざんにうち破った。王経の軍勢の死者は数万人に及んだ。王経が退却して狄道城にたてこもると、姜維はそれを包囲した。魏の征西将軍陳泰が軍勢を進めて包囲を解いたので、姜維は退却して鍾題(しょうだい)に駐屯した。


十九年(256)春、遠征先において姜維を大将軍に昇進させた。さらに戦闘準備をととのえ、鎮西大将軍の胡済(こせい)としめし合わせて上邽で落ち合う手はずであったが、胡済は約束を破ってやってこなかった。そのために姜維は段谷(だんこく)において魏の大将鄧艾にうち破られ、軍兵はちりぢりになって逃げまどい、多大の戦死者を出した。人々はそのためひじょうに怨み、隴以西の地で騒乱がおこり不安定になった。姜維はあやまちを謝し責めを負って、みずから官を下げてほしいと願い出、後将軍・行大将軍事となった。


二十年(257)、魏の征東大将軍諸葛誕が淮南で反逆し、関中の兵を分けて東方へ下った。姜維はその虚に乗じて秦川(しんせん)へ向おうと欲し、またも数万の軍勢を率いて駱谷(らくこく)に出、ただちに沈嶺(ちんれい)に到達した。当時長城(沈嶺のすぐ北にある城)にはたいへん多くの穀物が貯蔵されていたのに、魏の守備兵は少数であったので、姜維がやってきたと聞き、人々は恐れおののいた。魏の大将軍の司馬望(ぼう)が守備に当り、鄧艾もまた隴右より駆けつけ、みな長城に陣を張った。姜維は前進して芒水(ぼうすい)に駐屯し、すべて山を利用して陣営を築いた。司馬望・鄧艾は渭水にそって防禦のとりでを固めた。姜維は何度も戦いを挑んだが、二人は応戦しなかった。


景耀元年(258)、姜維は諸葛誕の敗北を聞くと、成都に帰還した。ふたたび大将軍に任命された。


昔、先主は漢中のおさえとして魏延を駐留させ、外敵を防ぐために諸陣営には充分な兵を置き、敵が来攻してる、侵入できないように配慮しておいた。興勢(こうせい)の役のとき、王平が曹爽に対抗できたのも、すべてこの制度が続いていたおかげであった。


姜維は建議して次のように述べた、「諸陣営を交錯させて守備するのは、〔乱暴な侵入者に備えて〕『門を幾重にも設け』たという『周易』(繋辞伝下)の趣旨に合致してはおりますが、しかし、敵の防禦にはさわしい対策であっても、大勝を博するわけにはまいりません。敵が来るとしても、諸陣営はすべて武器をとりまとめ兵糧を集め、引き退いて漢・楽の二域に行き、敵の平地への侵入を許さず、さらに関所の守りを大切にして防禦に当らせるのがよいでしょう。有事の際には、遊撃隊(ゲリラ)を両城からくり出して敵の隙をうかがわせます。敵軍は関所を攻撃しても抜くことができず、野に放置された穀物もないとなると、千里の彼方から兵糧を運ぶことになり、自然に疲弊欠乏するでしょう。撤退のときにはじめて諸城からいっせいに出撃し、遊撃隊と力をあわせてたたき伏せる、これこそ敵を顧滅する方策です。」


その結果、督漢中の胡済(こせい)を漢寿(かんじゅ)まで退かせ、監軍の王含(おうがん)に楽城を守らせ、護軍の蔣斌(しょうひん)に漢城を守らせた。また西安・建威・武衛・石門・武城・建昌。臨遠においてすべて防禦陣を築いた。


五年(262)、姜維は軍勢を率いて侯和(こうわ)に出、鄧艾に撃破され、引き返して沓中(とうちゅう)に駐屯した。姜維はもともと故郷を離れて蜀身を寄せた人物であり、連年戦いに明け暮れながら功績を立てることができずにいるうち、臣官の黄皓(こうこう)らが宮中にいて権力をわがものとし、右大将軍の閻宇(えんう)が黄皓と結託した。しかも黄皓はひそかに姜維を廃して閻宇を立てんと願った。姜維もまたそれを疑っていたので、危倶の念を抱き、二度と成都に帰還しなかったのである。



六年(263)、姜維は後主に上表して、「聞きますれば、鍾会は関中で出動の準備をととのえ、進攻の計画を練っているとか。張翼・廖化の二人に諸軍を指揮させ、陽安関の入口と陰平橋のたもとをそれぞれ固めさせ、危険に対して未然に処置なさいますように」と述べた。


黄皓は鬼神や座の言葉を信用し、敵は絶対にやってこないと考え、後主にその進言をとりあげないように言上したが、群臣は何も知らなかった。


鍾会が駱谷に向い、鄧艾が沓中に侵入しようというときになってはじめて、右車騎将軍の廖化を沓中にやって姜維の援軍とし、左車騎将軍の張翼、輔国大将軍の董蕨(とうけつ)らを陽安関の入口に向わせ、諸陣営の外にぁって救援態勢をとらせることにした。陰平(沓中への道筋に当る)まで来たとき、魏の将諸葛緒(しょかつしょ)が建威に向ったと聞いたため、留まってこれを待ち受けた。


一ヵ月あまりたって、姜維は鄧艾に撃破され、陰平に引き退いた。鍾会が漢・楽二城を攻撃包囲し、別将を派遣して関口(陽安関口)に進撃させたため、蔣舒(しょうじょ)は城を開け渡して降伏し、傅僉は格闘して戦死した。鍾会は楽城を攻撃したが、落すことができないまま、関ロがすでに落ちたと聞き長駆して進撃した。張翼・董厥(とうけつ)がやっと漢寿に到達したところで、姜維・廖化は陰平を捨てて退却してきて、ちょうど張翼・董厥らと出会い、そろって引き退き剣閣にたてこもって鍾会に対抗した。


鍾会は萎維に文書を送り述べた、「あなたは文武両面にわたる才能をもたれ、世人をしのぐ策略を胸に抱かれ、功業を巴・漢の地にあげられ、名声は中華の地にまで聞えわたり、遠きも近きもあなたに心を寄せないものはございません。過去に思いを馳せるたびに、かつては〔国を異にしても〕大きな理想に心を通わせたことを考えるのです。呉の季札(きさつ)と鄭(てい)の子産(しさん)の交情(春秋時代、二人は国を異にしながらよく理解しあった)は、友情のあり方というめのを理解しておりました。」


姜維は返書を出さず、軍営をつらね要害を固めた。鍾会は抜くことができず、はるか遠方から兵糧輸送を行なっているため、帰還の相談をしようと考えた。


ところが鄧艾は陰平から景谷道を通って〔剣閣の〕脇から侵入し、かくて綿竹においてし諸葛瞻(しょかつせん)を撃破した。後主が鄧艾に降伏を願い出たため、鄧艾は進軍して成都を占領した。


姜維らが諸葛瞻の敗北を聞いた当初、後主は成都を固守するつもりでいるとか、東方の呉に入国するつもりであるとか、南方の建寧(けんねい)に入るつもりであるとか、いろいろの情報が流れた。そこで軍を引いて、広漢・郪(し)の街道を通りつつその真偽を確認しようとした。ついで後主の勅令をうけたので、武器を投げ出しよろいをぬいで、鍾会のもとに出頭し、浩の陣営の前まで赴いた。将兵はみな怒りのあまり、刀を抜いて石をたたき切った。


鍾会は姜維らを手厚くもてなし、かりの処置として、彼らの印璽・節・車蓋をみな返してやった。鍾会は姜維と外出するときには同じ車に乗り、座にあるときには同じ敷物に坐り、長史の杜預(とよ)に向って、「伯約(姜維)を中原の名士と比較すると、公休(諸葛誕)や太初(夏侯玄)でも彼以上ではあるまいな」といった。


鍾会は鄧艾を罪に陥れ、鄧艾が護送車で召還されたのち、そのまま姜維らを率いて成都に至り、勝手に益州の牧と称して反旗をひるがえした。姜維に兵士五万人を授け、先鋒をつとめさせるつもりだったが、魏の将兵は憤激して、鍾会と姜維を殺害した。姜維の妻子もみな処刑された。



郤正は論文を書いて姜維について述べた、「姜伯約は上将の重責を占め、群臣の上に位置していたが、粗末な家に住み、余分な財産を持たず、別棟に妾を置く不潔さもなく、奥の間で音楽を奏させるたのしみももたず、あてがわれた衣服をまとい、備えつけの車と馬を使用し、飲食を節制して、ぜいたくもせず倹約もせず、お上より支給された俸禄の類を右から左へ使い果たした。彼がそうした理由を推察すると、それによって貪欲な者や不潔な者を激励しょうとしたり、自己の欲望を抑制し断ち切ろうとしたのではない。ただそれだけで充分であり、多くを求める必要はないと考えたからであった。およそ人の議論というるのは、つねに成功者をたたえて失敗者をけなし、高いものをさらにもちあげ、低いのをさらに抑えつけるものであって、誰も彼も姜維が身を寄せる場所もなく、その身は殺され一族は根絶やしにされたことをとりあげ、それを理由に非難をあびせ、もう一度検討しなおそうとはしないが、これは『春秋』が示す価値判断のたてまえとは違ったものである。姜維のように学問を楽しんで倦むことなく、清潔で質素、自己を抑制した人物は、当然その時代の模範なのである。」


昔、姜維といっしょに蜀にやってきた人たちのうち梁緒(りょうしょ)は大鴻臚(だいこうろ)に、尹賞(いんしょう)は執金吾に、梁虔(りょうけん)は大長秋にそれぞれ官位が上がったが、みな蜀の滅亡より先に没した。


評にいう。蔣琬は万事きっちりしていて威厳があり、費禕は寛容で人を差別なく愛し、ともに諸葛亮の定めた規範をうけ継ぎ、その方針に沿って改めなかった。そのために辺境地帯は安定し、国家は和合した。しかしながら、小さな町を治める道を充分にわきまえず(広都の長であったころの蒋腕をさす)、公務以外の場における身の処し方を充分わきまえていなかった(魏の降人に殺された費禕をさす)。


姜維はほぼ文武両面の才を備え、功名をあげることを志したが、軍勢を軽々しく扱い、むやみに外征をくり返し、明晰な判断を充分にめぐらすことができず、最後は身の破滅を招くことになった。『老子』に、「大きな国を治めるのは、小さな魚を煮るのに似る(小さな魚を煮るのにつつきまわしてはいけないように、煩瑣な法令で民に干渉してはならない)」と述べている。ましてせせこましい小国において、たびたび民の生活を乱すような行動をおこしてよいものだろうか。



正史『三国志』

陳寿著 井波律子訳


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