2012年11月16日金曜日

空腹と満腹


時おり妻は、目からウロコが落ちるようなことを言う。

少し前、「どこまで食べるのか」を語った時も、そうだった。


「いったい、満腹まで食べてよいものか?」

その問いに対する妻の答えは「否」。

「空腹が収まれば、それで良し」と言うのであった。


なるほど、「満腹」という信号は、幸福感を刺激するその裏では、「警報」でもあろう。

「もうこれ以上入れたら、ヤバイですよ」という身体からの警報。言うなれば、掃除機のコードを引っ張り過ぎた時に現れる「赤いテープ」だ。


人類の永い歴史において、現代ほど頻繁に満腹になるのは稀有のことであろう。それゆえに、満腹感は幸福感と結びついてしまったのかもしれない(適当論)。

しかし現代、「食いすぎ」はあらゆる病の起爆剤となってしまっている。このままあと数百年も「満腹の時代」が続くのであれば、身体と脳が学習して、満腹感と不快感を結び付けるのかもしれない。

しかし、それまでに人類が支払うであろう代償は少なからぬものとなるであろう(すでに支払いは始まっている)。


満腹になろうとするのは、向上心旺盛な人類の性向なのかもしれない。

しかし一方、「最低ラインで良し」とするのも、ワビサビの美学であろう。

「空腹が収まれば良しとする」という姿勢には、そんな美しさが漂っている。


空腹とは何ぞや、満腹とは何ぞや?

面と向かったラーメンに問いかけるのであった…。

(ノビるよ!)

疑問という門の先


とある駅の構内に、「疑問から始まる学問」という気の利いたフレーズを見かけた。

なるほど、「疑問」という門をくぐった先にあるのが、「学問」という門であろう。

しかし、その先となると道は不確かとなるばかり。その途上には「苦悶」、「煩悶」などの易からざる諸門が立ち塞がる。

この段階に至りてようやく、前門には虎、後門には狼であったことに気付かされざるを得ない。

やむなく、シッポを巻いて逃げ出せば、その見苦しき様は、肛門から吐き出される汚物のごとし。

しかしそのせいか、腹のうちはどこかスッキリとしている。そんな"もん"だ。

そもそも、疑問という門をくぐったのは、何かを疑ったからに他ならない。

そして、散々に門内をのた打ち回ってみた後は、汚物のような、まことにつまらぬモノでも、何かを信じる気にはなっている。

詰まっていたのは他でもない、信じられぬ何かであったのだ。

今朝、珍しく澄み切った空の向こう、遠方に立っする山々の頂きが汚れなき白さに染まっていた。

また美しい季節が巡ってきた。

それはそれで、いい"もん"だ…。

2012年11月15日木曜日

禅僧・快川紹喜と武田信玄


信玄(戦国大名・武田信玄)は意表を突いて、快川(禅僧・快川紹喜)の力量を試したことがあった。ある日のこと、居室にこもって座禅を組んでいる快川の背後に忍び寄り、いきなりその鼻先に白刃を閃かせたのである。

ところが快川は自若としてたじろがず、間合いをとっておもむろに一篇の偈(げ)を唱えた。

「紅炉上、一点の雪」

紅炉とは、火が赤々と燃えている炉のことを言う。そんな炉の上に一片の雪を置くと、たちまち跡形もなく溶けて消える。それと同じように、人間が本来の仏性に目覚めていれば、仮りに私欲や妄想にとらわれることがあっても、一瞬にして解け去ってしまうものだ。禅の悟りとはそういうものであり、この不動心を備えている限り、どうして自分の生死に拘泥し、不意の白刃に怯えたりすることがあろう。

信玄は、大悟徹底した禅の高僧に相応しい快川のこの応対を前にして、自分の軽率を悔い、虚心に頭を垂れたが、快川はさらに説いて信玄のより高度の自覚を促した。

「公のような国主の立場にある御仁が、軽々しく刀を弄ぶものではありませぬ。肝心なのは心の修養とわきまえ、今後みずから刀を取らぬようお心掛けあられよ」

信玄はこの訓戒を受けて、快川に傾倒することますます深く、その後はついに一度も刀を手にすることはなかったという。



時は下り、天正十年三月。

信玄亡き後の武田領内には、織田信長の下知を受けた軍勢が怒涛のように攻め入り、追い込まれた武田家当主・勝頼は天目山の麓で自害。



そのおよそ一ヶ月後、織田の軍勢は快川のいる恵林寺を包囲し、百余人らの僧を山門に追い上げた。それからほどなく、恵林寺山門は猛火に包まれ、凄惨な修羅場が現出することになる。織田軍が放った火は足元を這いのぼり、見る間に黒煙となって楼上を押し包んだ。

快川は座禅したまま、従容と火中に生命を断ったが、その寸前、次のような人口に膾炙する遺偈を、同座の百余人の衆僧の前で唱えたという。



安禅は必ずしも山水を須(もち)いず

心頭滅却すれば火も自(おのずか)ら涼し








抜粋:「名将の陰に名僧あり(百瀬明治)」
第三章「武田信玄の陰に快川紹喜」

2012年11月13日火曜日

苦渋のポーツマス条約。羨望と警戒


日本はロシアと戦う前から、「講和」を考えていた。

戦争する期間は1年間ぐらい、6分4分の勝ちで良し。

それが小国日本が大国ロシアとの決戦に踏みきれた理由でもあった。



その講和の絶好のチャンスとなったのが、日本海海戦(1905年5月)における日本軍の大勝利。ロシアが最後の望みを託していたバルチック艦隊が壊滅してしまったのだ。

しかし、それでも不十分だと考えたのがアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領。のちに日露間の講和を斡旋することになる彼は、金子堅太郎にこう言った。

「日本軍は今のところ、何もロシアの領土を占領していない」



そこで急遽、日本軍は「樺太」へと兵を進め、1ヶ月もかけずにアッという間に占領してしまう。

この樺太占領は、ロシアを講和のテーブルに着かせるためだけの、いわば「付け焼刃」であったという。



さて、いよいよポーツマスで日露の講和会議が行われることになるが、ロシアは不利な戦局におかれながらも、がぜん強気である。

ロシア皇帝ニコライ2世はあらかじめ、「1ルーブルの賠償金も、1ピチャージの土地も日本に渡してはならない」と全権大使ウィッテに言い含めていた。

有利な戦闘を展開していた日本とて、講和を急がなければならない理由がある。なにせ、日露戦争の戦費は当初予算の7倍にも膨れ上がっており、長期的な戦闘継続はほぼ不可能であった。



莫大な戦費による財政の大穴を埋めるため、ぜひにも賠償金が欲しい日本。それをビタ一文とて支払いたくないロシア。頑ななるウィッテは「ここには勝者も敗者もいない」と豪語する。

この絶望的な交渉はおよそ1ヶ月、10回の会議の末にようやく結論をみる。それは、アメリカの駐露大使の説得が奏功し、ロシア皇帝ニコライ2世が「樺太の南半分」を譲ることに渋々同意したからであった。しかし、賠償金を支払うことは断固として拒否した。



「賠償金はまったくなく、全島占領したはずの樺太も南半分だけ」

これが、大国ロシアに日本の勝利を認めさせた条件だった。

納得いかぬのは日本国民。日比谷公園に集った市民は暴徒化し、各所を襲撃して回った。この日露戦争における日本人の死傷者は22万7,000人(うち戦死者8万4,000人)。これほど犠牲甚大なる大戦争が、無に帰してしまったことに我慢がならなかった。



それでも、大国ロシアに勝利したという日本の「名声」は世界に鳴り響いた。

それまで未開国とされていた日本が、世界に「一等国」と認められるようになるのは、この日露戦争以後のことである。日本はアジア・中近東・アフリカなど「これからの国」に先駆けて、羨望と模範の的となったのだ。

しかしその一方で、欧米列強からは「警戒の目」で見られるようにもなる。とりわけ日米関係はこじれにこじれ、アメリカでの日本人移民排斥運動は激化、悪化の一途をひた走るのであった…。





出典:歴史人 2012年 01月号
「日本はいかにして日露戦争を終結させたのか?」

2012年11月11日日曜日

不敵なる東郷ターン、バルチック艦隊を殲滅


ロシアのバルチック艦隊を眼前にした日本海軍。

その旗艦「三笠」のヤードには「Z旗」が翻った。この旗の意味するところは「皇国の興廃、この一戦にあり」という悲壮なる覚悟である。



そして、Z旗が掲げられた10分後、司令長官・東郷平八郎は右手を高々と上げ、左回しに回した。

「長官、取り舵ですか?」

参謀長の加藤友三郎は念のために聞き返した。東郷の命に従えば、それは敵艦の射程距離内での「敵前回頭」となり、常識的な海戦術では自殺行為とされるものであった。



「さよう」

東郷に迷いはない。

のちに「東郷ターン」とよばれる敵前大回頭のはじまりである。





「しめた」

バルチック艦隊を率いるロシアのロジェストヴェンスキーは、即座に一斉砲撃を命ずる。回頭中の戦艦「三笠」率いる日本海軍第一・第二艦隊は、静止した的のように狙いが定め易い。

無防備にハラを晒した「三笠」の右舷には敵弾が面白いように命中する。司令長官・東郷の乗る「三笠」は右舷側に40発、左舷側に8発を被弾した。その激震や凄まじい。ところが不思議なことに、艦橋最上部(司令塔)には当たらなかった。



奇跡的に魔の5分間を凌ぎ切った戦艦「三笠」は、ついに反撃を開始する。

日本海軍の砲撃はロシア軍のそれとは比較にならぬほど正確で、ロシアの旗艦「スワロフ」の司令塔をあっという間に吹き飛ばす。この時、その司令塔にいたバルチック艦隊の司令長官・ロジェストヴェンスキーは重傷を負ってしまう。



「勝敗は最初の30分で決まった」

そう言われる通り、大胆不敵な「東郷ターン」は絶大な功を奏した。皮を切らせて、骨を断ったのだ。

バルチック艦隊は38隻で日本海にやって来たわけだが、わずか2日間のうちに日本海軍は16隻を撃沈、6隻を捕獲、6隻は自沈という大戦果。ロシア港ウラジオストックまでたどり着けたのはわずか3隻だけだった。

まさに「殲滅」。完全勝利である。「大日本帝国万歳、大日本海軍万歳、世界空前の大捷(大勝利)、敵艦隊全滅」。当時の新聞にはそう報じられた。



「まさか…」

世界の列強はその第一報が信じられなかった。「極東の小国が大国ロシアの艦隊に大勝するはずがない…」。そのため、日本の同盟国だったイギリスでさえ、事実を再確認するために新聞の発行を遅らせたほどだった。



重傷を負っていたロシアの司令長官・ロジェストヴェンスキーは、白旗を掲げて降伏した艦の中で苦しんでいた。そしてその後、佐世保の海軍病院に移送されて手厚い看護を受けていた。

そのロジェストヴェンスキーを見舞った日本海軍の司令長官・東郷平八郎。

敬意ある東郷のいたわりに対して、ベッド上のロジェストヴェンスキーは「敗れた相手が閣下であったことが唯一の慰めである」と慇懃に答えたという。



日露の講和条約が結ばれた後、東郷は日本海軍の解散式を行い、「解散の辞」を読み上げる。

「連合艦隊はここに解散することになった。(中略)。武力は艦船兵器のみにあるのではなく、これを活用する『無形の実力』にある。『百発百中の一砲』は、百発一中の敵砲に対抗しうる…」

この文を起草したのは参謀の秋山真之と伝わるが、アメリカ大統領ルーズベルトはこの辞にいたく感銘を受け、英訳文を将兵に配布させたとのことである。



この「解散の辞」は、こう締めくくられる。

「古人曰く、勝ってカブトの緒を締めよと」










(了)






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出典:歴史人 2012年 01月号
「皇国の興廃、この一戦にあり 日本海海戦でバルチック艦隊を殲滅す!」