2016年4月8日金曜日

土門拳、梅原龍三郎を怒らす




日曜美術館
1984年放送「ドキュメント人間列島」
鬼が撮った…土門拳の世界



写真集「風貌」より
土門拳の言葉


僕の女の写真が下手なことは、写真界の定評である。

どうも僕の写真はピントが合いすぎるのがたたっているらしい。

シワとかシミとか白髪とか、つまり本人としてはその存在をあまり現実的に認めたくないものが、あまりにも瞭然と写りすぎるのである。

だから、僕の写真は下手なことも確かだが、より正確に言えば、嫌われているのである。





昭和28年、文化人や政財界人の肖像写真集「風貌」を発表。

昭和10年、土門さんが26歳のときから昭和26年、41歳までのあいだに撮影した人物写真集です。まだ大型カメラしかなかった初期の撮影では、その後の小型カメラのように手軽にスナップを撮るわけにはいきません。助手を2~3人ひきつれての大掛かりな撮影でした。






梅原龍三郎撮影時の助手
写真家、角田匡さん

「梅原さんに、いろいろポーズを頼んだ。じっと眺めてるだけで、なかなかシャッターを切ろうとしない。だいたい僕はこれでよさそうだなぁと思って、助手ながら考えたんですが、シャッター切らない。

そしたらなんか、冷気のようなものがずーーっと走った。それは梅原さんの方からだった。もう我慢の限界に近づいたんですね。じっとさせられるんですから。大家が、これは我慢の限界に近づいた。

そしたら土門さんが声をかけたんです。

『先生、そのデッサンに木炭をちょっとあててるところをお願いします』

とポーズを頼んだ。そしたら梅原さん、

『この絵は完成された絵だから、いまさら木炭をあてるわけいかん』

ということを吐き捨てるように言った。私そのときに見ていたんですがね、梅原さんの顔が、表情がだんだんだんだんこわばっていくんですよ。木炭をにぎった手をパッと膝にね、置いてね、動かさないんです。まだシャッターは切らない。もうよさそうだと、先ほど申し上げたように私は思うんですが、まだ撮らない。

そしたらターーっとこう、なんか嫌ーな感じがでてきた。ほんとにもう爆発寸前っていうのは、あのときじゃないですか。

そしたら土門さん、閃光一発、カシャっとシャッター切った。




やれやれ、と私はほっとしました。

で、ちょっと梅原さんのほうを見ますと、今まで腰をかけてた籐椅子をちょっと上げて、パーッとアトリエの床にたたきつけた。あー、そうとう怒っておられるな、と私は思った。

で、カメラをカメラケースに入れて帰る用意をした。で、土門さんが私に

『おい角田、まだもう一枚撮るんだよ』

こう言うんです。あれっと私は思った。なに撮るんだろ、と。したら、土門さんが梅原さんのほうを向かれてツカツカと行かれて、

『先生、お顔のクローズアップをもう一枚お願いします』

と、こう頼んだわけです。その、私そのお二人の、こう、見たんですが。もう何かこう、両雄のね、最後のね、勝負というようなものを感じましたね。









梅原龍三郎を怒らせた話
土門拳全集〈9〉風貌より

話:土門拳


梅原さんが伊豆の大仁温泉へ富士山を描きに行っていられた時、その宿屋の美校の梅原教室の学生たちが訪ねて行った。障子をあけて、梅原さんがはいって来られた。偶然、入り口にあった座蒲団が、梅原さんの足にひっかかった。

「無礼者!」

と叫ぶや、梅原さんはその座蒲団をポンと蹴飛ばされた。先生の日頃を知っている学生たちも、さすがに呆気に取られたという。真偽のほどは保証しがたいが、そのとき行った学生の一人が、ぼくにそう話した。



梅原さんは明治21年(1811)生まれだから、すでに60を越していられる。その梅原さんが浮気をされた。ついにバレて、奥さんに取っちめられた。梅原さんは

「どうも若気の至りで」

とあやまったという。これも真偽のほどは保証しがたいが、「若気の至り」は画家の間でもっぱらの噂である。



ぼくはこの2つのエピソードが大好きである。如何にも

「お山の大将」

らしい梅原さんの面目が躍如としていて、愉快である。



今や世界の画壇はマチスとピカソの天下である。

「マチスとピカソの死後50年も経たなければ、この二人を乗り越えるような画家は出ないでしょう。今の画家は本当に不運です。ぼくたちがどんなに新しいことをしても、この二人のどっちかが、とっくの昔にやってしまっていることを発見するばかりです」

と、先日も猪熊弦一郎氏はぼくに向かって嘆いていられたが、数百千の日本の画家の中で、わが梅原さんだけは、

「マチスやピカソが何をやろうと、俺は俺だ」

という腹の坐ったところがある。戦後、フランスから初めて着いた「ヴェルヴ」のマチス特集号を梅原さんへ見せたら、頁をめくりながら

「マチス君も近頃は大分うまくなったね」

と言ったという。その一言には、さすが梅原ファンの画商も度肝を抜かれたという。もっともルノアールの弟子という関係では、梅原さんは、マチスと兄弟弟子に当るわけであるから、そう言われても別に不思議でないかも知れない。






いささか旧聞に属するが、ぼくが梅原さんを怒らせた話も、画家の間では相当有名である。肖像撮影の参考までに、ここでその詳細を話すことにしよう。

昭和16年(1941)八月の暑い日のことだった。

『婦人公論』10月号の口絵のために、ぼくは記者の栗本和夫氏に連れられて、今は共同通信にいるが、当時は写専の学生だった撮影助手の角田匡と麻布新龍土町のアトリエを訪ねた。



梅原さんは、アトリエの一隅で、画商の石原求龍堂と将棋を指していられた。その間にと、ぼくたちがカメラの仕度などをしていると、梅原さんが駒を投じられた。梅原さんの負けである。これはまずいと思った。

梅原さんの負けず嫌いは有名である。

負けたんで、御機嫌が悪くなっては都合が悪いと思ったのだった。石原求龍堂も知らぬ仲ではないし、こんな時には一番ぐらい勝ちを譲ってくれてもよかりそうなものを、とぼくは内心いまいましかったが、求龍堂は澄ましたものだった。



しかし、案外、梅原さんの御機嫌はよかった。雑誌が10月号なので、秋めいた着物にして頂きたいと注文すると、暑い中をわざわざ黒っぽい着物に着替えて下すったし、「どこで撮りますかな」とアトリエの真中に立った時には、少し笑いを含んだ優しい眼をすらしていられた。とはいうものの、

梅原さんは写真嫌いである。

嫌いというよりも、ぼくの邪推によれば、写真というものを軽蔑している人である。絶対に写真屋の言いなりに気軽に動くという人ではない。だから、当時の梅原さんの写真といえば、梅原さんのパトロンともいうべき野島康三氏が撮って、昭和12年(1937)、『みづゑ』の梅原龍三郎特集号に載った数枚しかなかったと言ってよい。

その日のぼくの撮影にしても、承諾を得るまでには、新龍土町のアトリエへ栗本氏が幾度も足を運ばなければならなかった。だから、その日、ぼくは撮影にかかる前に、この機会に

一枚でも余計に撮ってやろう

という満々たる野心を抱いていた。

カメラはカビネの組立、レンズはコンパー・シャッター付のダゴールF6.8 168mm、乾板はオリエンタル・ハイパーパン、ライトはマツダの大型閃光電球3個のバルブ発火、絞りはすべてF12.5という仕度だった。



まず、アトリエの突き当たり、萬暦赤絵の大皿と北京風景などの作品が載っている支那風の飾棚の前に立った全身一枚を、横位置で撮った。横位置の構図では雑誌の口絵には不適当なわけだったが、アトリエの記録という意味で、一枚でも余計にというぼくの野心の表われだった。この最初の一枚では、煙草を指に挟んだ梅原さんは、にこやかに笑って写っていられた。

二枚目は、支那机によりかかって、右手に持った小さな支那人形を眺めていられる半身の縦位置。三枚目はそのままのポーズでこちらを見ていられるところ。後日、この三枚目の写真を見た図案家の高橋錦吉は

「これは人形を持っているなんてもんじゃないよ。君に石ころを投げつけようとしているところだよ」

と言ったが、とすると、この三枚目あたりから、そろそろ御機嫌が崩れかけていたものと見える。



四枚目は、画架に向かって製作中の梅原さんが、こちらを振り向いた瞬間のポーズ。画架に乗っている木炭全紙の舞妓の素描と梅原さんの顔とを、一枚の写真で見せようという一石二鳥のねらいだった。

ところが、その素描を梅原さんの陰にならないようにするには、カメラ・ポジションを思い切り高くして、俯瞰的アングルを取らなければならなかった。それは大仕事だった。重い組立カメラを机の上に立て、ぼくは窓枠につかまって、カメラを操作しなければならなかった。

まず三脚を机にしっかりと安定させ、それから素描と梅原さんの顔の両方にピントが合うようにアオリを調整し、レンズを絞り、シャッターをかけ、乾板取枠を装填し、その引蓋を引き、かぶりをかけ、三個所に配置したフラッシュの効果を点検し、さてそれからゴム球を握って、気合を計りながらシャッターを切る、という段取りだった。



この手間のかかる操作の間、籐椅子に腰かけた梅原さんは、のけぞるように後ろを向いて、動かずにいなければならなかった。何分にも組立カメラというやつは、モデルが一寸(ちょっと)でも動くと、全然ピントがぼけてしまうので、撮る方も撮られる方も、厄介である。

それにしても、ぼくの注文したポーズは、あの猪首の梅原さんにとって、随分つらいポーズだったにちがいない。そのポーズを、カメラ・ポジションを少し変えて、二枚撮った。6枚目は

「もう十分じゃないか」

と露骨にいやな顔をされる梅原さんへ無理に頼んで、やはり画架へ向かって素描を描いていられる全身を左側から真横にロー・アングルで狙った窓際ではカメラの引きがないので、アトリエの奥の杉戸の前へ画架も籐椅子も移転して頂いた。



梅原さんはもはや完全に御機嫌ななめだった。

不承不承、籐椅子に腰かけられた。ぼくは木炭で画を描いていられるポーズを注文した。梅原さんは左ギッチョである。その左ギッチョの製作振りを撮りたかったのである。

「この絵は、もうこれ以上描くことは出来ない」

と梅原さんは吐き捨てるように言われた。そんなことはもちろんわかり切ったことだった。一度完成された絵というものは、一点一画といえども抜き差しならない緊密なバランスに立っているから、もし一点を加えるならば、響きのものに応ずるが如く、全画面にわたって手を加えなければおさまらなくなる、というのである。そんなことは、セザンヌ以後、どんなへっぽこ絵描きでも口にする近代絵画の常識である。ぼくは何も実際に描いてくれと注文しているのではない。

「ただ、木炭を画面へ当てていて下さればよいのですが…」

と重ねて頼んだが、梅原さんは頑として突っぱねられた。さらに押すと、

「もういやだ」

と立ち上りそうにされた。仕方なしにぼくは、そのまま、ただ画面を見ていられるところを撮ることにした。そしてピントを合わせにかかった。ピント・グラスでのぞく梅原さんのプロフィルは、果たしてなかなか立派だった。籐椅子に腰かけて、足を外八文字に開いたからだの構えも、さすがに堂々としていた。



しかし、ぼくは念入りにピントを合わせているうちに、梅原さんの一文字に結んだ例の特徴ある口が、わなわな震えているのに気付いた。膝に置いた左手も、木炭をつかんだまま、ブルブル震えているのに気付いた。

怒りに震えるという言葉の実際を、ぼくは目のあたりに見たのである。

ぼくに対する憎悪と反発、それはとうてい長い時間そのままではいられない爆発寸前の状態だった。ぼくは、梅原さんの全身から、殺気に似たものを感じた。何よりも、

ガバッと起ち上がって、カメラを蹴飛ばしはしまいか、と恐れた。

ぼくは咄嗟の間にもカメラを引抱えてうしろへ退けるよう、油断なく気を配りながら、シャッターを切った。そして、もはやこれまでと思い、「有難うございました」と、お辞儀した。



梅原さんは、むっくり起ち上った。籐椅子を両手でいっぱいに持ち上げた。そして

「ウン」と気合もろとも、アトリエの床へ叩きつけた。

すさまじい音だった。一瞬シーンとした。いや、叩きつけたというのが曲解だというならば、非常に手荒く籐椅子を元の位置へお戻しになった、と言い直してもよい。そして、梅原さんはその上にドッカと腰をおろされた。肘を張り、足を外八文字に開いて、天井の一角を睨みつけながら、

「ウーム、ウーム」

と大きく息をしていられた。





怒りに燃えるその顔は、高野山金剛三昧院の「赤不動」のような、実に逞しい顔だった。実に男性的な美しい顔だった。まさに「お山の大将」そのものの顔だった。ぼくがさがしていた梅原龍三郎そのものが、そこに現前していた。

その発見に、ぼくは頭が冴え冴えとした。

大急ぎでカメラを梅原さんの開いた膝の前に据えると、

「お顔だけのクローズ・アップをもう一枚お願いします」

と頼んだ、梅原さんは、一瞬、

「ホー」

といった表情でぼくを見上げていられたが、やがて

「もういいんじゃないか」

となだめるように言われた。正直に言うと、その時、ぼくは腹の中で

「ざまあ、見やがれ」

と叫んだ。そして、「では、どうも有難うございました」と丁寧にお辞儀して、引き下がった。



この一部始終を最後まで無言のまま、ジーッとアトリエの隅から眺めていた男がいた。石原求龍堂である。求龍堂は古くから梅原さん出入りの画商であり、ぼくとも前からの知合いだった。

ぼくは、形勢険悪なとき、一言ぐらい執りなしてもよかりそうなものだ、と求龍堂の顔をチラッと見たこともあったが、求龍堂は澄ました顔で、煙草をふかしていた。最後まで、一言のスケも入れなかった。

変なやつだな、とその時はぼくも腹が立ったが、その後、求龍堂は相当の人物である、と思いかえすようになった。



帰り道、龍土町の電車通りへ出たとき、撮影助手の角田は、まだ青い顔をしたまま、ホッとしたような声で言った。

「恐かったですね。睾丸が縮み上ったまま、まだ下りませんよ…」

この時の撮影は、その後反省すると、梅原さんに申訳ないと思うほど、間違った方法論に立っていた。つまり、概念的な演出主義に毒されていたのである。その後、殊にリアリズム自覚以後のぼくは、そんな演出主義的な方法論を完全に精算してしまったが、それにしても、この時、梅原さんに対して、

自分でもわからないほど挑戦的であり、意地悪だったのは、どうしたわけだろう、

と考えてみた。



その二ヶ月ほど前、玉電桜新町の志賀直哉さんのお宅で、ぼくは初めて梅原さんにお目にかかり、志賀さんから紹介された。志賀さんは、ぼくが撮った写真を梅原さんへ見せ、

「土門君は君を撮りたいそうだから、いつか機会を与えてやってくれ給え」

と親切に口添えして下すったりした。志賀さんという人は、客を実に親切にもてなす人である。梅原さんに対しても、見ていて気持ちがいいほど、友情にみちた応待をしていられた。秘蔵の倪雲林の『杜陵詩意図』などを床の間にかけて、見せていられた。

梅原さんはといえば、柱を背に、むっつりとふんぞりかえって、志賀さんの話に時々無愛想に「ウン、ウン」とうなずくだけで、ほとんど言葉らしい言葉を吐かれなかった。

その態度がぼくには傲慢不遜に思え、そばで見ていて、ムカムカした。

それから二ヶ月経って、いざ梅原さんを撮ることになった時、その時の梅原さんに対する反感が、ぼくを変にこだわらせたに違いない。それにしても、梅原さんと志賀さんは『白樺』以来の古い親友だし、梅原さんの傲慢不遜な態度は、

京都の友禅染問屋のぼんぼん

として育った生得のものだし、だからといって、ぼくなどからムカムカされては、要らぬお世話というものだろう。



なお、この「梅原龍三郎を怒らせた話」には、梅原さんを怒らせた祟りともいうべき後日物語が二つ三つ続くのであるが、それはまたの機会にして、最近、ぼくの友人である画家、原精一から聞いた話を一つ披露して、終りとしよう。

戦後、梅原さんは、デコちゃんをモデルにして、油絵や素描を何枚も描かれた。デコちゃんとは、言うまでもなく、映画女優・高峰秀子のことだが、梅原さんはデコちゃんをすっかりお気に召されて、一枚、また一枚と張り切って描き続けられた。デコちゃんはあの通り、なんでもズケズケ言う気性なので、

「先生はしつこいのね。あたし、もう飽き飽きしちゃったわよ」

とカンシャクを起こした。デコちゃんにカンシャク起こされた梅原さんは、すっかりオロオロされて、三拝九拝、やっとモデルを続けてもらったが、その後、やはり出入りの画商である中村鐡に

「ぼくを撮った時の、土門君の気持ちがわかったよ」

と、そおっと、言われたというのである。







玄関払いを食わせるような手強い相手ほど、かえっていい写真が撮れる。

玄関払いを食ったら、写真家は勇躍すべきである。

土門拳




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