話:藤平光一(『氣の確立』)
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実を言うと、一時期は坐禅をやりすぎて、いわゆる「禅病」になったこともある。
何を見ても「空(くう)、空…」——こうなると、ノイローゼの一人歩きといってもいい状態だ。駅のホームに電車が入ってきても、「これも空じゃないか」と思ったなら、平気で電車に向かって歩いて行ってしまう。
もちろん本人は、心のどこかでわかっている。このまま電車に飛び込んだら死んでしまうな、とは感じている。しかし、まるで夢うつつのように、現実と空想の境目がわからなくなってしまうのである。
だから、ビルの屋上に行って、ああ、きれいな花をとりましょうと、宙に踏み出して死んでしまう、などということが実際に起こる。
現実と坐禅の境界線がわからなくなると、まさにその状態になる。
道を歩いていても、蝶が舞う春先には、蝶の存在が信じられない。この蝶は、私だけに見えるのではないか、もしかしたら誰にも見えないのではないか。実際、手をのばしても蝶はつかまらない——だんだん現実というものに自信がなくなってくる。最後に苦しくなって、首を吊って死んでしまう人も出てくる。
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もちろん坐禅には坐禅としての効果や意義がある。しかし、坐禅だけでは神経衰弱になってしまうこともある。
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抜粋:藤平光一『
中村天風と植芝盛平 氣の確立』
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