話:鈴木大拙
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これはキリスト教の人の話ですが、セント・フランシス・オブ・アッシジなる人が昔いましたが、イタリアのアッシジという所の聖者のフランシスという人のことです。
その人は説教の中にこういうことを言っている。今のキリスト教者はみんな心がありすぎて困る。死人のように、死んだ人のように、死骸のようにならないと駄目だ、と言っています。
それはどういう意味かというと、死骸になれば、どこかにもって行って、立てておけばそのままに立っている。しかし、押し倒せばまたそのまま倒れる、そのままになっている。人が何を言っても怒りもしない、笑いもしない。それから、それに紫の衣でも着せて説教の場所に出せば、いかにもそれに堪えないように生白い顔して、まごまごしている、こういうのです。
これには多少諷刺がはいっているかも知れませんが、日本でも、坊さんなら紫の衣や緋の衣を着せると、得意然として、ずいぶん好い気になっているように見えることもある。人間は大抵そんなものだ。人間は死骸にならないと本当のことがわからんといってもよい。まあ、こんな意味のことだと片づけておきましょうか。
それからまた、これもキリスト教の人で、ゼスイットの開祖のセント・イグナシウス・ロヨラであったと思いますが、その人の言うのに、今、神様が出て来て、そこの海辺にある、櫂もない帆もない捨小舟(すておぶね)、それに乗って大海に出よと命ぜられるなら、即座に出てゆく。なんら躊躇することをしない。
あとは神のままにされて動く。波間に沈むなら沈む、大洋に浮かび出るなら浮かび出る。どこへどうなるかわからぬが、それでよいというのです。宗教生活にはそういうところがあるのです。
木や石のようになるということは、いまの死骸のようになることであると見てよい。また、ゼスイットのセント・ロヨラのような心持になるのだといってもよい。動かせば動く、坐らせれば坐る、蹴飛ばせばとばされる。そして別に何とも不平を言わぬ、全く絶対の受動性を発揮している。そういうことがあるのです。
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引用:鈴木大拙『無心ということ』
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