話:鈴木大拙
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むかし道元禅師が支那から帰られた時に、支那に行って何を学んで来たかと、こう人が訊ねたら、「自分は柔軟心(にゅうなんしん)を得た」と言われたとのことであるが、この柔らかいとか、固いとかいうのは、わが心の全体を挙げての働きからみて言うのです。
この柔らかいというのは、いわゆる受動性の型、宗教の極致と言うてもいいので、柔らかでなければ物を入れようとしてもはいらぬ。なにか固いものをその中に蔵していると、”われが”といって頑張る。そんなに頑張ってしまうと、内外から来るものに対して、すぐ反発してしまう。なるべく自分がなくならなくてはいけない。
自分というものが、大いにはっきりしないものであると言われるかもしれないが、とにかく、何だかそこに頑張るものがあると喧嘩してしまう。あるときは喧嘩もよいが、いつも喧嘩腰では困る。”自分”が倒れると”人”も倒れる。すべてが倒れてしまうと、ここから新たな世界ができる。
柔軟なものになると、はいったものをすっと包んでしまう。こっちに何だか一物あると、これが出しゃばりたがって困る。抵抗が顔出し始めると今までの僅かの柔軟性も引っ込んでしまう。これは二つのものが一つになったといっては悪い。
そんなら、その二つのものを超えてしまったかというと、それも悪い。二つをそのままにしておいて、しかして一つであるとでもいうか、これは円融自在(えんゆうじざい)の世界である。事々無礙(じじむげ)の世界です。事々無礙の世界が柔軟心の世界である。それが受動性のもとである。こう言ってもいいのであります。
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引用:鈴木大拙『無心ということ』
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