2014年5月15日木曜日

思案なし



話:手島堵庵




 東郭子いわく

 この(盤珪和尚の)不生といふはすなわち身どもがつねに言ふ”思案なし”のことでござるほどに、和尚の説法もおなじことでござる。不生といへばまだ聞きつけぬ人もござるゆへに、身どもは思案なしの所を知らしやれイといふ事でござるワイ。

 人はもと思案なしに見聞動きて、事欠けはござらぬ。思案なき時、我といふものはござらぬ。もし思案なき時、我といふものがあるといふ人があらば、どこにござったか云てみさッしやれイ、ありやしますまい。我がなければ私というものはござらぬ。

 『大学』には、みづからあざむく事なかれといふてあるは、人のせまい事をするは、みな思案が身の勝手をさせる事でござる。さすれば思案は本心に背くゆへ、何事でも思案が出たならば、その時はよくよく思ひわけて思案に流れないといふことでござるワイ。



 また問う、「こなたは思案なしで居よと、おほせられるども、私どもが思案なしに物事をとりさばきいたさば、如何やうな悪しきことをいたさうも知れませぬ。それでも思案なしに成り居るがようござりますか」

 東郭子曰、これは善い不審でござる。そうじて何事も思はぬといふことでござらぬ。思ふと、思案とは大いに違ふたことでござる。

 人は活動ゆへ少しの間も思はぬといふことはござらぬ。それをたとへば、本心は五体のごとし。首も、手足も、身うちが少しの間も動かずにいませうか、思ひは身の動くと同じことで、心の動くはたらきでござる所で、本心の通りにしたがひはたらいて善なもので微塵も本心の害はしませぬ。思案といふは、この思ひを汎めるをいひますワイ。



 むかしから、思案は悪ぢゃといふ人は一人もござらぬ。これは何れもの心得やすきために、身どもが初めて”思案はみな悪ぢゃ”といふて聞かせますことでござるワイ。思案がみな悪なわけをいふて聞かせませふ、よう聞かッしやれイ。

 先いづれも少しも思案せずに、今ここで何ぞ悪いことをしてみさッしやれイ。さアでけませうか、思案はたくみでごある。少しもたくみなしには、悪いことはできますまいが、なんとそうぢゃござらぬか。まだそれで合点がゆかずばたとへて聞かせませふ。

 朝寝所で目のあきたる時、そのまま起きれば、こころの内に何ともござらねども、かの悪な思案が出まして、今朝は寒いの、夜前夜ふかししたのと、身勝手をすすめて引きとめます。そこでまた本心が寝ていても気のすまぬ正直者ゆへ、思ひは善なもので、さやうの思案は無用といふて、起きんといたせば、また思案がさようにしては身がつづかぬの何のかのといふて止めます。しかれども、本心の光は強いもので、またそれを叱りまして、起きんとします。このせりあいの時が、そなたの紛らはしがるところでござるワイ。

 そこで世の人が善い思案と覚えているが、この本心の思ひのことでござるワイ。悪な思案の出たとき、またもとの本心の善な思ひかへすゆへ、その思ひも思案のやうに覚ゆれども、それは思案でござらぬ。



 また孟子も、心の官(やくめ)は思ふと仰せられて、人は善く思ふといふ心の善なはたらきがあるゆへ、本心に背かぬと仰せられたも、この思ひが悪な思案を選り分けますがゆへでござりますワイ。

 仏家にも正念(しょうねん)と申すは、この思ひのことでござる。有念(うねん)といふはみな煩悩で、思案のことでござるワイ。無念といふも正念のことでござる。無念といふは念のないといふことではござらぬ。念のないに無念といふことはありませぬ。正念なれば念を覚へぬゆへ、無念といひますワイ。無念と覚えたら、なんのそれが無念でござらふ。なんとさうぢゃござらぬか。






出典:手島堵庵『坐談随筆』



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