引用:矢田部英正『日本人の坐り方』
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「正坐」という言葉は、明治期の礼法教育が日本全国に普及させたひとつの坐り方を、唯一の正しい基準として結び固める役割を果たした。まさにそれは学校教育が新たに制定した近代日本の文化基盤のひとつとして、いまなお私たち日本人の意識を支配している。私たちが伝統文化であると思っていた「正坐」とは、まぎれもなく近代日本の教育推進策の産物だったのである。
坐り方に関する言葉については、文学の世界に目を転じてみても、作家の世代によって明確な差があらわれているようにみえる。
たとえば夏目漱石の小説には「正坐」という言葉が出てこない。武蔵大学で言語学を教えておられる小川栄一教授からご指摘をいただいて、全集を調べ直してみると確かにその通りであった。登場人物の坐り方をあらわす表現に、漱石は「端座(たんざ)」「かしこまる」、それから「跪坐」と書いて「かしこまる」と読ませたりする。
たとえば明治38年(1905)から翌年にかけて書かれた『吾輩は猫である』を見ると、
此座布団の上に後ろ向きにかしこっまて居るのが主人である。
六尺の床を正面に一個の老人が粛然と端座して控えて居る。
などと出てくるが、「かしこまる」「端座」とは、いまでいう「正坐」の坐り方にちがいない。
※端座とは、端正に坐るということの他にも、坐次(席順)を重視した殿中の儀礼においては「下座の端から坐る」という折り目正しさも求められたことを意味している。
登場人物はどちらもキモノを着ていたことが文脈から想像されるけれども、漱石が小説を発表しはじめる明治の終わり頃には、西洋化の国策が徐々に社会に浸透しはじめ、学校の教員も日常的にスーツやスラックスを着用して教壇に立つようになってきていた。
小説のなかでは洋服で「正坐」をすることの不具合も描かれていて、たとえば『坊っちゃん』に出てくる酒宴の場面では、
おれは洋服だから、かしこまるのが窮屈だったから、すぐ胡座(あぐら)をかいた。
うらなり君がおれの前へ来て、一つ頂戴致しましょうと袴のひだを正して申し込まれたから、おれも窮屈にズボンの儘かしこまって、一盃差し上げた。
とある。舞台となる四国の中学校教員の姿は、袴とズボンとそれぞれの出で立ちが描かれているけれども、やはり畳に床坐の場面では、洋服という服装は何かと「窮屈」を強いるものであったことが読み取れる。
坊ちゃんの穿いていた、当時のスラックスがどのような形のものであったのか、想像の域を出ないけれども、腿や腰の身幅がピッタリとしたノータックのストレートスラックスだったかも知れない。とくにテーラー仕立てのスラックスの類いは、前後に足をまっすぐ見せるための折りたたみ線が入っているから、床に坐ると皺が定着して型崩れを起こしてしまう。
いずれにせよ洋服は、床に坐ることを想定してつくられていないから、日本の伝統的な生活スタイルとは容易には折り合いがつかず、その微妙な感覚のズレを、どうも寛げない、落ち着けない、窮屈だとして、何となくからだが感じ取っていた時代の様子を、こうした小説の件(くだり)からも垣間見ることができる。
「かしこまる」という言葉が内包する抑制感を、「正坐」と切り離せないものとして、漱石は捉えている。そして、慶応三年(1867)、つまり江戸時代の最後の年に生まれた夏目漱石の言語感覚には、「端座」「かしこまる」といった古来の呼び名が定着していて、「正坐」という近代の言葉は、馴染まなかったか、もしくは存在しなかったようである。
ところがその弟子である寺田寅彦は、昭和七年(1932)に書いた「夏目漱石先生の追憶」という随筆のなかで、自宅における漱石の居ずまいを次のようにあらわしている。
先生はいつも黒い羽織を着て端然として正座していたように思う。結婚してまもなかった若い奥さんは黒ちりめんの紋付きを着て玄関に出て来られたこともあった。田舎者の自分の目には先生の家庭がずいぶん端正で典雅なもののように思われた。
しかし自宅にいて黒い羽織を着て寒そうに正座している先生はなんとなく水戸浪士とでもいったようなクラシカルな感じのするところもあった。
寅彦の描く「端然として正座」する漱石の坐り方は、かつて「端座」と言われていたものだろう。「端正」「端然」といった形容のなかにも、無駄のない、洗練された、古来の力強い形式が、生活空間のなかで静かに息づいている様子がみえるようだけれども、漱石の作品を読んだ後に、「正座」という言葉を普通に使っている寅彦の随筆を読むと、文体そのものにも近代的な明るさが感じられないだろうか。
それに比べると、漱石の初期の小説は、『吾輩は猫である』や『坊ちゃん』などにしても、内容はいたってユーモラスだけれども、「端坐」「かしこまる」といった人物を描くときの言葉遣いからして、だいぶ寅彦より古風な印象を受ける。
もっとも夏目漱石は、英文学者から小説家へと転向し、漢文や俳句の素養もそなわった文化人である。一方、寺田寅彦は物理学者としての業績を残すかたわらで、随筆などに優れた才を発揮した人物であった。もとの頭脳が科学者である寅彦の明晰さは、その文体からも推し量れないではないが、二人の文豪の間にそうした素養のちがいはあったにせよ、「正坐」という言葉をめぐる両者の言語感覚の相違は、当時の日本に存在した全体的な言葉の潮流のあらわれと言える面もあるように思う。
しかしながら、くり返し言うが、「正しい基準」というのは、それが定まると同時に基準と対立する「正しくないもの」を排除してしまう。
近代以前は、「胡座(あぐら)」も「安坐」も「立て膝」も有用な坐り方として生活のなかに位置づけられていたのだが、「正坐」が正しい基準になってからというもの、いつのまにか基準から外れた「崩れた作法」とのレッテルを貼られてしまった感がある。しかしそれは永い永い日本の伝統から考えれば、ごく最近につくられた近代文化のなかの基準のひとつにすぎない、というのが本当のところではないだろうか。
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出典:矢田部英正『日本人の坐り方』
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