話:鈴木大拙
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物理の話で有名な、量子説というものがある。不連続なところを飛び越えるのだと聞いています。
むかしギリシアの哲学者でゼノンという人があって、この人は運動を分析して、これは不可能だと言ったということです。”ここ”から”ここ”まで来るその空間は無限に割れる。いかなる小さい何分の一ミリメートルでも、両点の空間は依然として無限に割れる世界である。その間をどんなに短くしても同じです。こんな風に無限に割れる空間だから、どうしても飛ぶということが不可能なのです。
理屈の上で考えると、連続しているものでなく区切られるものだから、イの点からロの点、ロの点からハの点に行くには、その間を飛ばなければ行けない。その飛ぶということがどうしてできるか? イからロを通らずに、どうしてハに行くか? 亀の子が兎より一歩先に出発したとすれば、兎は永遠に亀を乗り越すわけに行かぬというのである。
とにかく、不連続なところが事実上あるので、そこへ来ると行き詰まるのです。”路頭窮まるところ”といいますが、そこが不連続で切れているのです。ここからはどうしても飛ばんといけないことになっている。それで事実上、宗教の体験にはそんなようなことがあるので、飛躍とか横超とか言わなくてはならぬのです。
この飛ぶということを心理的に話すと、物理的に飛ぶことに相当する。心理的体験を話すると、非常な苦しみということを考えなければいけないのです。対立の世界を非常な束縛だと感ずることがなければいかん。それを感ずること、すなわち業(ごう)という考えを有することになるのです。
浄土のほうの見方では、罪業ということを非常に強く感じさせるように仕組んである。これを感ずると、われらはどうもこうもならんということになって、心中の苦しみはたとえようがないということになる。
その苦しみの揚句に、”雲万重の関門を叩く”と、それが不思議に開かれる。いかにもわが全体を尽くして叩きのめす時に——自分の存在そのものを超えた時に、その門が一時に開かれるのであるから、これを他力とも天啓とも言う。
門が開かれてみると、従来いた世界は世界でも、大いにその意義を異にするものがあることに気がつく。これを”心は浄土に遊ぶなり”と言うのである。心理的に言うと、非常な苦しい世界、その世界の苦しい中を抜け出して、楽しい処に往かしめるため、祖師方はいろんな方便でわれらを救おうとする。罪業の苦しみ、対立的な存在の苦しみなどを指摘する。
それから、この身は本来は地獄にゆくに決まっているなどとも教える。そうなると、立っても寝てもおれぬということになる。本当にこの苦しみを痛切に感じだすと、その極に思わぬ力が出てきて、今まで飛べぬと考えていたところを飛ぶということができるのである。
本当にこの世の苦——いろいろの意味においての苦を痛切に感じる人が、ひとたび是非やらなければならぬことは、先にも言ったごとく、飛躍または横超の経験でなくてはならぬ。対立の世界にいる限りは、何だかだ、真・美・聖とかいうようなもの、我楽苦多(がらくた)が仰山にある。
いろいろなものを次から次へと積み上げ、重ね上げた世界では、動きがとれなくなる。賽の河原で子どもが小石を積み重ねると、鬼が出て来て、これを一度に踏み倒してしまうというが、それと同じ案配に、自分らが一心に作りあげたと考える、この世界を一瞬時に叩き潰してしまわなくてはならぬ。
”一拳拳倒黄鶴樓(一拳に拳倒す黄鶴楼)”、”一趯趯翻鸚鵡洲(一趯に趯翻す鸚鵡洲)”という言葉がありますが、それを体験しなくてはならぬ。一つずつ崩すというようなことでは助かることができない。積み上げた概念を、根元から転覆させなくてはならぬ。
それは決して楽なことではない。なかなか容易ならぬ苦労だが、やってしまえば、あとは大安楽である。この安楽境を、自分は無心の境地と呼びたいのである。
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引用:鈴木大拙『無心ということ』
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