2014年5月29日木曜日
氣は相対するものか? [藤平光一]
引用:藤平光一『氣の確立』
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先生(植芝盛平)は「えいっ」と掛け声をかけ、これで氣が結べたとおっしゃる。しかし私には、なぜそれで氣が結ばれたことになるのか、皆目わからなかった。
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先生が氣結びをやれば、私も一緒にやったのだが、どうにも理屈に合わないような気がして仕方がなかった。仮に天と自分とが氣を結ぶとする。ということは、天と自分は相対していることになるはずだ。
合気道というのは氣に合する道である。それはわかっていた。だから、相手が二でくれば、こちらは八を合わせて、二と八で十。五でくれば五で合わせて十にする。こうして相手の氣に合わせるのが合気道の極意だということである。
しかし私は、どうしてもそれに納得がいかなかった。たとえば後に私は戦地で八十人の兵隊を預かっていたが、いくらなんでも八十人もの兵士すべての氣に合わせ切れるものではない。人によってそれぞれ違うし、全員に特徴がある。
そのうち八人だけでもかかってくれば、その八人それぞれが違うのだ。一瞬の戦いのなかで、それぞれ別個に氣を合わせていくことなど、本当にできるのだろうか?
やがて私は、天地が一つであることに気がついた。つまり、氣を天地に合わせるだけという、たった一つの方法でよかったのだ。
なぜなら人間は、天地と対立するものではなく、天地の氣の一部なのである。それなのになぜ、わざわざ相対して結ばなければならないのか? そんな必要はない。
先生が氣結び、氣払いと言ったために、今ではだれも本当の氣のことがわからなくなってしまった。氣結びだの、氣払いだのという言葉は、本質とは無縁のものなのである。
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抜粋:藤平光一『氣の確立』
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