2014年5月2日金曜日

雲、無心にして [鈴木大拙]


話:鈴木大拙




 ”有”が直(じき)に”無”で、無がまた直に有である。

 その有と無とを離れたようなところに何かがあって、有から無に移り、無からまた有に移ったり、またその有無が一合相になったりしていては、何もできるひまがない。一に逐われ、二に逐われ、三に逐われて、これ日も足らぬということになりはしないか。

 それよりも、三つなら三つ、二つなら二つ、何でもよい、皆一つにぐっと握ってしまう。こう握り占めたところから、二でも三でもの世界に出てくる。そうすると、そこに柔軟性というものが発見せられる。無分別というものが出てくる。木や石と同じで、”どっちに転んでもいいという世界”が出てくる。

 これが開けてくると、そこに”無心”と名付けられるべき境地が展開して来る。宗教的に本当の無心というものが、ここでわかるのだと私は思う。



 それを通俗的に、「雲無心而出岫(雲無心にして岫を出で)鳥倦飛而知還(鳥飛ぶに倦んで還るを知る)」と言う(陶淵明・帰去来の辞)。

 雲が何の意図ももたず山の洞穴のような所(岫・しゅう)から湧いて出る。それから、鳥が飛ぶのが厭になって森のねぐらに帰って来る、というほどの意味の言葉で、木になり石になると言ってもよい。







引用:鈴木大拙『無心ということ








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