2014年5月30日金曜日
反物の寸法と、女性の坐り方
引用:矢田部英正『日本人の坐り方』
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「端坐(正座)」の作法は、極めて格式の高い武家儀礼のなかで形式が定まった。ところが時代が下っていくにしたがって、この坐り方は女性たちの間で広まっていくことになる。実はこのことは、当時の服飾様式の変化と密接に結びついているようなのである。
江戸時代の寛永年間(1624〜1644)、幕府が反物の寸法を改定する禁令を出したことがもとで、キモノの身幅が急に狭くなっていく。
佐藤泰子氏の『日本服装史』によれば、室町時代の小袖は、丈が短く、身幅が広く、袖幅が狭いという特徴があり、こうした小袖の様式は江戸時代初期まで継承されていた。女性でもゆっくり胡座(あぐら)をかけるほど広かった身幅が、絹や綿の反物の寸法が改められ、それがもとで裁断の仕方も変化したため、寛永八年(1631)には、現代のキモノとほぼ同じ寸法に落ち着く。さらには、同時に起きた帯幅が太くなっていく傾向も女性の動作に大きな影響を与えるのだが、ここでは身幅の問題だけに絞ろう。
キモノの寸法の変化は、着こなしや立居振舞の美意識が大きく変化したことを意味している。つまりキモノを着たときのシルエットを横に広げようとする室町風の美意識から、むしろ身幅を狭くして、縦方向の丈を長くとり、屋内では裾をひきずり、必要に応じて褄(つま)をとったりお端折(はしょ)りして裾を上げるスタイルを好しとする風潮へと、時代の要請が変化していったということである。
キモノの身幅が狭まることによって、大股で歩いたり、足を横に広げたりすると、当然の結果として足が露出してしまうし、「胡座(あぐら)」や「安坐」の姿勢をとろうものなら下半身の奥まで人目にさらすことになりかねない。室町時代には女性も普通に行っていた「胡座」や「安坐」の坐り方が、江戸時代の女性にほとんど見られなくなるのは、おそらく幕府が改定した反物の寸法と密接な関係があるだろう。
姿勢や作法の嗜(たしな)みは日々の動作すべてに関係するから、御上から口うるさく言われても、ついつい楽な方へと崩れてしまいがちになるのは、いまも昔も変わらないわれわれ庶民の心情であるかもしれない。そうした庶民の心裡を見越した徳川幕府は、反物の寸法に規制をかけることで、とくに女性が慎ましく膝を閉じて生活するように仕向けたのではないだろうか。
女性が膝を開いて坐ることを「はしたない」と感じてしまう心理も、どうやらこうした幕府の禁令によって、政治的につくられたもののようである。
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出典:矢田部英正『日本人の坐り方』
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