2013年11月10日日曜日

土壇場に追い詰められ時のカラダ



話:桜井章一


カラダは厳しい環境下に置かれると、思いもよらぬ可能性を開いてみせてくれる。いわゆる「火事場の馬鹿力」といったものはまさしくその一例だが、カラダは不利な条件の下に置かれると、それを打ち破っていく力を発揮するものだ。

私は麻雀の勝負で不利な状況、相手に9の分があり、こちらには1しかないというような時こそが勝負所と思って、現役時代戦ってきた。五分と五分の局面でののるかそるかといった局面でのしのぎ合いは、別に勝負所でもなんでもない。こちらが圧倒的に不利なときこそ、そこで踏ん張ればとてつもない力が出て、一気に形勢が逆転するのである。それこそが本当の勝負所なのだと思う。

土壇場でこそものすごい力が出てくるのであれば、追いつめられるというのはその意味ではけっして悪いことではない。



私は大きな勝負のときは、いつも一週間くらい前からほとんど食わず、寝ずで過ごした。といっても何か目的意識を持って食べたいのを我慢し、眠たいのを我慢したわけではない。本当に食べたくない、眠たくないのである。

カラダを横にするにしても夜通し、表の物干し台で服のままゴロンとなって過ごす。冬の寒風吹きすさぶ夜空の下でもそんなことをしていた。動物のようにずっと外気に触れていたくなるのである。

カラダはそういう状態に置かれると、「このままだったら危ない、死ぬぞ」となり、眠っている本能が揺さぶられるのだと思う。ふだん人間として生きていることで身につけている思考は剥がれ落ち、本能のようなものがむき出しになってくる感覚がまさしくそこにはあった。野生の動物が本能を研ぎ澄まして戦いに挑むのと同じようなものが、そのときの自分にはあったのかもしれない。



何日もそうやってほとんど寝ず、食べずの状態でいると、意識がものすごく覚醒してきて、ちょっとした物音でも耳をろうするほどの大音響となって聞こえたりするのである。

たとえば、カレーライスを少しだけ口に入れようとしてお皿にスプーンが触れたりすると、ただのカチャカチャする音がグワ〜ンと大きな鐘を叩いたような音になって耳を襲ってくるのだ。だから、勝負を前にした数日間はスプーンやフォークなどの金属の食器は使うことができなかった。

そうした異常ともいえる状態で勝負に臨むと、思考が一切入らない純粋な感覚だけで牌を操っている。そして見えないはずの相手の牌の柄を感じ取ることもできるのである。



比叡山延暦寺に千日回峰行という修行がある。その修行の一つにお堂にこもって9日間、断食、断水、不眠、不臥で過ごすというものがある。そのような条件での人間の生理的限界は3日間とされているから、命がけの極めて危険な行だ。瞑目している修行者は線香の灰が落ちる音も聞こえるという。



これは、私が食べず、寝ずの状態で体験したのと同じ感覚の極まった世界である。われわれの感覚にはまだ知られていない未知の領域がたくさんあると思う。人のカラダというものは、このように極めて厳しい環境・条件に置かれると、むしろ細胞が活性化され、「生きよう」という底力が引き出される。

海外には、貧しさゆえに食べるものが十分にない状態で生活をしているような国や地域がある。ところが、そういうところの親には子どもがたくさんいたりする。それは不利な環境によって逆に生命力が強くなっているせいだと思う。

そのことは食べるものがふんだんにある飽食の日本の状況を見てみるとより一層はっきりする。男性は精子の数が減ったり、不妊の女性が増えているのは、カラダが過剰な栄養で甘やかされているからなのだ。我々現代人は本能という観点から今一度、自分たちのカラダを見つめ直してみるべきではないだろうか。




引用:桜井章一『体を整える

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