2014年4月7日月曜日

『労四狂』とは?


 談義本が江戸戯作の出発点であったことは疑いないとして、さて、戯作の面白さの一つが、その乾いた知的内容であることはもちろんだが、一方、表現の奇抜さ・新鮮さという面にもあることは言うまでもない。

 通常そのような戯作表現の先達として挙げられるのは風来山人の文章であるが、その風来に先立つその方面の魁(さきがけ)と、当の戯作者連中の間で明瞭に意識され、取り沙汰されていたのが、本書(『労四狂』)の著者・自堕落先生の”狂俳文”ともいうべき文章であるのだが、不思議なことになぜかこのことは、つい近年まで全く忘れられていた。

 本書『労四狂(ろうしきょう)』は、”近世中期の徒然草”と称すべき内容をもち、作者の死生哲学とでも言うべきものを述べている。人間が一生をおくるについて必ずつきまとう苦労、その結果として必ずとりつかれる心の病としての狂。智者は智に狂い、愚者は愚に狂い、その狂うと知って狂う者、知らずして狂う者、その症はこもごも四つ、そこで題して『労四狂』という。

 『労四狂』は無論、『老子経(ろうしきょう)』のもじりである。当時の老荘思想の流行がいかに大きかったかがうかがわれる。



【本文・序より(抜粋)】

智者は智に狂ひ、愚者は愚に狂ふ。

智者の智に狂ふは、愚者よりも病おもし。

その狂ふと、自ら知って狂ふ者あり、知らずして狂ふ者あり。

憐むべし、憐れむべし。

おのおの死してのち癒ゆべし。

狂なるかな、狂なるかなと、口をあき手をたたきて、十無居士北華※序。



十無居士:著者・自堕落先生の別名
北華:自堕落先生(本名・山崎凌明)の俳号






引用:
『新 日本古典文学大系 81』
田舎荘子・当世下手談義・当世穴さがし

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