2015年8月13日木曜日

「日本切腹、中国介錯」論 [胡適]



〜話:加藤陽子〜




 日中戦争は偶発的な戦闘から始まります。この戦争がなぜ拡大したのか。それを説明するにはいろいろな方法があるのですが、まずは中国の外交戦略から見てゆきましょう。

 蒋介石は軍のトップとして中国国民政府を率いた人でした。彼は、軍事に関しては自ら行うわけですが、外交などの分野では、外務官僚といった専門のキャリアを持った人だけではなく、優れた才能を持つ人物を抜擢したことでも知られています。たとえば、1938年に駐米国大使となった胡適(こてき)は、北京大学教授で社会思想の専門家でした。ものすごく頭のよい人。胡適が書いた手紙は多く残されていますので、当時の中国側の外交戦略はかなり明らかにされています。

 胡適は1941年12月8日、日本が真珠湾攻撃を行ったときにも駐米大使としてワシントンにいました。胡適のような人が相手では、日米交渉を行うために渡米した野村吉三郎などひとたまりもなかったのではないか、そのような想像をさせるほど、この人の頭は優れている。これからお話することは、鹿錫俊(ろくしゃくしゅん)先生という、中国に生まれ一橋大学で博士号をとった大東文化大学の先生が明らかにしたことです。





 日中戦争が始まる前の1935年、胡適は

「日本切腹、中国介錯論」

を唱えます。すごいネーミングですよね。日本の切腹を中国が介錯するのだと。介錯というのは、切腹する人の後ろに立って、作法のとおりに腹を切ったその人の首を斬り落とす役割を意味します。それでは、当時の世界に対する胡適の考え方を見てゆきましょう。

 まず、中国は、この時点で世界の二大強国となることが明らかになってきたアメリカとソ連、この二国の力を借りなければ救われないと見なします。日本があれだけ中国に対して思うままに振る舞えるのは、アメリカの海軍増強と、ソビエトの第二次五カ年計画がいまだ完成していないからである。海軍、陸軍ともに豊かな軍備を持っている日本の勢いを抑止できるのは、アメリカの海軍力とソビエトの陸軍力しかない。このことを日本側はよく自覚しているので、この二国のそれぞれの軍備が完成しないうちに、日本は中国に決定的なダメージを与えるために戦争をしかけてくるだろう。つまり、日米戦争や日ソ戦争が始まるより前に日本は中国と戦争を始めるはずだと。

 うーむ。これは正しい観測ですね。実際の日米戦争(太平洋戦争)は1941年12月に始まりますし、日ソ戦争は太平洋戦争の最終盤、1945年8月に始まるわけですが、日中戦争は1937年7月に始まる。



 胡適の考えは続きます。これまで中国人は、アメリカやソビエトが日本と中国の紛争、たとえば、満州事変や華北分離工作など、こういったものに干渉してくれることを望んできた。けれどもアメリカもソ連も、自らが日本と敵対するのは損なので、土俵の外で中国が苦しむのを見ているだけだ。ならば、アメリカやソ連を不可避的に日本と中国との紛争に介入させるには、つまり、土俵の内側に引き込むにはどうすべきか? それを胡適は考えたのです。

 みなさんが当時の中国人だとしたら、どのように考えますか。

高校生:アメリカとソ連と日本を戦わせるための方法?

 そうです。日本を切腹へ向かわせるための方策ですね。日本人の私たちとしては、気の重くなる質問ですが。

高校生:国際連盟にもっと強く介入させるよう、いろんなかたちで日本の酷さをアピールする。

 蒋介石がとった方法を、さらに進めるということですね。正攻法です。でも、連盟はあまり力にはならなかったし、アメリカは加盟国ではなかった。これは少し弱いかな。

高校生:わからないけれど、ドイツと新しい関係ができてきたから、それを利用するとか…。

 くわしくは次の章でお話ししますが、ドイツが一時、中国を支えるようになるのは事実です。ですが、もっとアメリカとソ連にダイレクトにつながることですね。

高校生:まずはイギリスを巻き込んで、イギリスを介してアメリカを引き込むとか…。

 アメリカがイギリスを重視していたというのは当たっています。でも、イギリスはドイツとの対立が目前に迫っていて、この頃は余裕がなかった。





 それでは、そろそろ胡適の考えをお話ししますね。かなり過激でして、きっとみなさん驚くと思います。胡適は

「アメリカとソビエトをこの問題に巻き込むには、中国が日本との戦争をまずは正面から引き受けて、2〜3年間、負け続けることだ」

と言います。このような考え方を蒋介石や汪兆銘(おうちょうめい)の前で断言できる人はスゴイと思いませんか。日本でしたら、このようなことは、閣議や御前会議では死んでも言えないはずです。これだけ腹の据わった人は面白い。

 1935年までの時点では、中国と日本は、実際には、大きな戦闘はしてこなかった。満州事変、上海事変、熱河作戦、これらの戦闘はどちらかといえば早く終結してしまう。とくに満州事変では、蒋介石は張学良に対して、日本軍の挑発に乗るなといって兵を早く退かせている。しかし、胡適は「これからの中国は絶対に逃げてはダメだと言う。膨大な犠牲を出してでも中国は戦争を受けて立つべきだ、むしろ戦争を起こすぐらいの覚悟をしなければいけない」と言っています。日本の為政者で、こういう暗澹たる覚悟を言える人がいるだろうか、具体的にはこう言います。



中国は絶大な犠牲を決心しなければならない。この絶大な犠牲の限界を考えるにあたり、次の三つを覚悟しなければならない。

第一に、中国沿岸の港湾や長江の下流地域がすべて占領される。そのためには、敵国は海軍を大動員しなければならない。第二に、河北、山東、チャハル、綏遠、山西、河南といった諸省は陥落し、占領される。そのためには、敵国は陸軍を大動員しなければならない。第三に、長江が封鎖され、財政が崩壊し、天津、上海も占領される。そのためには、日本は欧米と直接に衝突しなければいけない。

我々はこのような困難な状況下におかれても、一切顧みないで苦戦を堅持していれば、2〜3年以内に次の結果は期待できるだろう。[中略]

満州に駐在した日本軍が西方や南方に移動しなければならなくなり、ソ連はつけ込む機会が来たと判断する。世界中の人が中国に同情する。英米および香港、フィリピンが切迫した脅威を感じ、極東における居留民と利益を守ろうと、英米は軍艦を派遣せざるをえなくなる。太平洋の海戦がそれによって迫ってくる。

”世界化する戦争と中国の「国際的解決」戦略”
石田憲編『膨張する帝国 拡散する帝国』所収(東京大学出版会)





 先ほどご紹介した鹿錫俊(ろくしゃくしゅん)先生による訳から引用したものですが、この思想は実に徹底していると思いました。こうした胡適の論は、もちろんそのまま外交政策になったわけではなく、蒋介石や汪兆銘などから、「君はまだ若い」などと言われて、抑えられたりしたでしょう。しかし、このようなことを堂々と述べていた人物が、駐米大使となって活躍する。

 私が、こうした中国の政府内の議論を見ていて感心するのは、政治がきちんとあるということです。日本のように軍の課長級の若手の人々が考えた作戦計画が、これも若手の各省庁の課長級の人々との会議で形式が整えられ、ひょいと閣議にかけられて、そこではあまり実質的な議論もなく、御前会議でも形式的な問答で終わる。こういう日本的な形式主義ではなく、胡適の場合、「3年はやられる、しかし、そうでもしなければアメリカとソビエトは極東に介入してこない」との暗い覚悟を明らかにしている。1935年の時点での予測ですよ。なのに1945年までの実際の歴史の流れを正確に言い当てている文章だと思います。

 それでは、胡適の論の最後の部分を読んでおきましょう。



以上のような状況にいたってからはじめて太平洋での世界戦争の実現を促進できる。したがって我々は、3〜4年の間は他国参戦なしの単独の苦戦を覚悟しなければならない。

日本の武士は切腹を自殺の方法とするが、その実行には介錯人が必要である。今日、日本は全民族切腹の道を歩いている。上記の戦略は「日本切腹、中国介錯」というこの八文字にまとめられよう。



高校生:すごい…。

 日本の全民族は自滅の道を歩んでいる。中国がそれを介錯するのだ、介錯するための犠牲なのだということです。すごい迫力ですね。



 しかし、いま一人、優るとも劣らない迫力のある、これまたすごく優秀な政治家を紹介しておきましょう。この人物の名前は汪兆銘(おうちょうめい)といいます。この人は一般的には、日本の謀略に乗って、国民政府のナンバー2であったのに蒋介石を裏切り、1938年末、今のベトナムのハノイに脱出して、のちに日本側の傀儡政権を南京につくった人物、つまり汪兆銘政権の主席となって、南京・上海周辺地域だけを治めた人として知られています。

 汪兆銘は、1935年の時点で胡適と論争しています。

「胡適の言うことはよくわかる。けれども、そのように3年、4年にわたる激しい戦争を日本とやっている間に、中国はソビエト化してしまう」

と反論します。この汪兆銘の怖れ、将来への予測も、見事あたっているでしょう? 中華人民共和国が成立する1949年という時点を思い出してください。中国はソビエト化してしまったわけです。汪兆銘は、まるでそれを見透かしたように、胡適の主張する「日本切腹、中国介錯論」ではダメだといって、とにかく、中国は日本と決定的に争ってはダメなのだ、争っていては国民党は敗北して中国共産党の天下になってしまう、そのような見込みをもって日本と妥協する道を選択します。これまた究極の選択ですね。





 この汪兆銘の夫人もなかなかの豪傑で、汪兆銘が中国人の敵、すなわち漢奸(かんかん)だと批判されたときに、

「蒋介石は英米を選んだ、毛沢東はソ連を選んだ、自分の夫・汪兆銘は日本を選んだ、そこにどのような違いがあるのか」

と反論したといいます。すさまじい迫力です。

 ここまで覚悟している人たちが中国にいたのですから、絶対に戦争は中途半端なかたちでは終わりません。日本軍にとって中国は1938年10月ぐらいまでに武漢を陥落させられ、重慶を爆撃され、海岸線を封鎖されていました。普通、こうなればほとんどの国は手を上げるはずです。常識的には降伏する状態なのです。しかし、中国は戦争を止めようとは言いません。胡適などの深い決意、そして汪兆銘のもう一つの深い決意、こうした思想が国を支えたのだと思います。








引用:加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ


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