2013年8月12日月曜日

「たのしみは…」 橘曙覧『独楽吟』



橘曙覧(たちばなの・あけみ)
「独楽吟(どくらくぎん)

たのしみは
珍しき書(ふみ)人にかり
始め一ひらひろげたる時


たのしみは
紙をひろげてとる筆の
思ひの外に能くかけし時


たのしみは
妻子(めこ)むつまじくうちつどひ
(かしら)ならべて物をくふ時


たのしみは
朝おきいでゝ昨日まで
(なか)りし花の咲ける見る時


たのしみは
常に見なれぬ鳥の來て
軒遠からぬ樹に鳴(なき)しとき


たのしみは
まれに魚煮て児等(こら)皆が
うましうましといひて食ふ時


たのしみは
そゞろ讀(よみ)ゆく書(ふみ)の中に
我とひとしき人をみし時


たのしみは
わらは墨するかたはらに
筆の運びを思ひをる時





「橘曙覧(たちばなの・あけみ)は江戸末期の歌人。

28歳の時、家業(文具商)を弟に譲って足羽山近くで隠棲生活に入る。本居宣長に私淑し、その弟子・田中大秀に入門。37歳の時、藁屋と名付けた家に住み、生涯を終えるまでそこで生活した。

短歌集「独楽吟(どくらくぎん)には25首の歌が収められており、いずれの歌も「たのしみは」で始まり、日常にありふれた些細な出来事の中に「たのしみ」を見出している。



平成6年、天皇皇后両陛下を国賓として迎えたアメリカのクリントン大統領は、ホワイトハウスの歓迎式典のスピーチで「独楽吟」の一首を取り上げている。

たのしみは
朝おきいでゝ昨日まで
(なか)りし花の咲ける見る時

(私の楽しみは、朝起きた時に昨日まで見ることがなかった花が咲いているのを見る時である)

クリントン大統領はこの歌を通して、日本人の心の豊かさを賞賛したという。



橘曙覧(たちばなの・あけみ)は2歳で母と死別、そして15歳で父と死別。隠棲生活に入ってからの生活は困窮を極め、愛する我が子を3人も失っている。

歌集「独楽吟」は当時多くの人々に書き写されて反響を呼び、ほどなく時の福井藩主・松平春嶽(しゅんがく)の目にも留まる。橘曙覧の歌に心打たれた春嶽は、わざわざ彼の草庵を訪ねたが、そのあまりにも貧しい暮らしぶりを見かねて禄を与えようとまで考えた。

しかし、曙覧はこのまたとない話を辞退。むしろ甘い話に乗ろうとした自分を忌み嫌い、家業を捨ててまで得た束縛のない生活を守る決意を固くする。



「苦楽同体」という言葉があるが、それは人生の苦しみと楽しみは一枚の葉っぱの裏と表のようなものであることを示している。

橘曙覧の歌は生活苦を詠んでいるにも関わらず、石川啄木のような悲壮感がないのは、むしろ葉っぱの表にある「たのしみ」を見ているからであろう。



曙覧の師事した本居宣長(もとおり・のりなが)という人は、「私有自楽(しゆうじらく)という考えを持っていた。それは自分の身近な空間に自らを自由に表現することができる和歌の世界に遊ぶことを意味した。

その宣長には、こんな歌がある。

「たのしみは くさぐさあれど 世の中に 書(ふみ)よむばかり たのしきはなし」

宣長に私淑していた曙覧は、おそらくこの歌に触発されて「独楽吟」を詠んだものと思われる。そうした歌は、外の世界に不満を抱くのではなく、内なる自分の心に喜びを見出すものとなった。技巧や嘘で歌を詠むのではなく、自らの偽りなき心が詠わせた歌であった。



57歳で生涯を閉じる時、橘曙覧は子供らにこう言い遺した。

うそいうな
ものほしがるな
からだだわるな(だらけるな)






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